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届きえぬ想い、
       叶えがたき願い

序章

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

終章



 ……遥か昔、至高神と竜神の間で激しい戦いがあった。
 辛うじて勝者となった至高神は敗者である竜神を歴史の影へと追いやり、世界を自らの統治する理想郷としたのである。
 しかし、それでも。たとえ影に埋もれても敗者は復仇の時を忘れない。
 時代は移ろい、至高神の勝利を祝う祝日を前にして、ついに竜族の戦士が行動を起こした。

第六章

「今回の事件は、結局の所“天空の大神殿”が作り上げた大いなる茶番に過ぎません」
 最高法院内の執務室で、アルシアは静かな口調でヴァネッサに告げた。
「“イシスの聖印”は、最初から盗まれてなどいなかったのです」
 そう、だからこそ犯人はローケイトの呪文に見つかることもなく、また聖印そのものが発見される事もなかったのだ。複雑そうに見えて、その実単純明快な事件だったというワケだ。
「実際に神殿宝物庫より盗み出されたのは、よくできた石ころでした。明かに“天空の神殿”はこの事態を実行段階よりも以前から知っていたのです」
 ミッチェルから渡された袋の中に入っていたのは、よく出来ているものの単なるガラス玉だった。少なくともこれが貴重なアーティファクトである事だけはあり得ない。
 彼が本気でこれが“イシスの聖印”であると信じていたのかどうかは、今となっては知る術もない。
 ただ僅かに残留魔力が感じられる所を見ると、盗み出された時点では目くらましの為に一時的な魔力が付与されていた可能性がある。最終的にどうであったかはともかく、恐らく盗み出した時点では本物であると信じていたに違いない。
 あるいは騙された事に気がつき、彼は最後にあのような行動に出たのかも知れない。焼け落ちる巡礼者礼拝堂での情景を思い出しながら、アルシアはそう思った。敵である陣営の信者を救い出すことによって、彼は相手の陣営に強烈な皮肉を浴びせたような物なのだから。
「“天空の大神殿”は、今回の事件を、最大限の政治的デモストレーションとして利用したのです……竜神ジェノヴァの残党に対する牽制と威嚇の意味を込めて……」
「アルシア」
 ヴァネッサは片手を上げてアルシアの言葉を遮った。
「……よく出来た筋書きだけど、ちょっと出来過ぎですね。まさか、小説家にでも転向するつもりなのかしら?」
 やんわりと前言撤回を促すヴァネッサの言葉に、アルシアは力なく微笑んだ。
「そうですね……いっそ全てが物語であれば、誰もが救われたでしょう」
 そう、全てが物語であれば、誰一人傷つく事なく平和裏に終ったはず。だけど……現実は物語のように甘くはない。
「そもそも最初に私が疑問に感じていたのは、これほどの騒ぎにも関わらず組織力ではこの大陸随一とも言える神聖騎士団が、一切の行動を起こさなかったという事実です」
 頭の中で自分の考えをまとめながら、アルシアがは一言一言を慎重に続ける。
「ましてや、神聖騎士団は戦乙女フレイア様によって直轄されている、いわば真の意味において至高神様の親衛隊と呼べる存在。今回の件が真に重大な物であるならば、まずは彼らにこそ出動が命ぜられる筈です」
 しかし現実には天空が打ち出した不干渉方針の為にフレイア様はこの件に関する一切の関与を禁止され、当然ながらその指揮下にある神聖騎士団も一切の行動を起こさないままである。その規模といい組織力といい、どう考えても彼らこそが今回の事件解決の主役となりえる筈の存在だったにも関わらず。
「そこに何らかの作為性を感じるのは、何も私だけではないと思いますが……神聖騎士団を動かさなかったのは、それなりの理由がある筈です」
「では、貴女はそこにどんな理由があると思っているのかしら?」
 当然すぎるヴァネッサの問いに、アルシアは少し考えるような素振りを見せてから言葉を続けた。
「神聖騎士団を動かした場合、その結果は直接至高神様へと届けられます。恐らく今回の指令の起案者であるフォルシア様は、至高神様に今回の件を知られたく無いと考えたのではないのでしょうか」
「……それは、何とも穏やかならぬ想像ね」
 ヴァネッサがわざとらしい驚きの表情を浮かべる。この瞬間、アルシアは自分の辿り着いた結論が決して誤りでは無かった事に気がついた。
「それではまるで、誇り高き戦乙女の長が、至高神様に対して何かよからぬ考えを抱いているように聞こえますよ」
 アルシアは頭を振った。違う、問題はそんなに単純ではない。
「いえ、フォルシア様が至高神様に翻意を抱くなどとても考えられませんし、私としてもそのような事を申し上げるつもりはありません」
 常識に照らし合わせるまでもない。戦乙女フォルシアは、その才覚と揺るぎない忠誠によって名を馳す存在だ。戦乙女達の中でも明かに別格の存在であり、翻意を抱く可能性や叛旗を翻すような可能性など実現する事はおろか、想像する事さえ馬鹿らしい事だ。
「もしフォルシア様が至高神様に隠しておきたい事があったとしても、それは必ず至高神様の立場を考えての事だと私は確信しています。その経歴を理由に今ひとつフォルシア様を信用していない者も存在しますが、それはフォルシア様を信じて要職に抜擢した至高神様に対する一種の侮辱と受け取っても良いでしょう」
 そこまで言ってから、アルシアは一旦言葉を切る。一体どう言葉を用いれば、天空に無礼にならぬ表現が出来るだろう。
「フォルシア様が、一体何を隠したいと考えていたのか、残念ながらそこまでは知る術がありません。実の所、今回の件には単なる政治的デモストレーションには収まらない何かがあると私は信じています」
「どうやら、私が本心で評価していた以上に、貴女は優秀な神政官だったようですね」
 アルシアの言葉に、ヴァネッサは軽くため息をつく。
「犯人を探り当てるのみならず、決して人が知るべきではない裏面の真実まで探り当てるとは……どうやら、私の考えは少し甘かったようですね」
 温かそうな湯気を立てている香茶をアルシアのカップに注ぎながら、ヴァネッサが言葉を続ける。
「貴女は解っているのですか、アルシア? 貴女は決して人が知ってはいけない事を、例え知ったとしても永遠に口を閉ざしておくべき事を、この私に公言してしまったのですよ? それがもたらす結果に、まさか思い当たらなかった筈もないでしょうに……」
 ヴァネッサの言葉は、明かにアルシアの立場を考慮しての事だった。所詮は“神”の創造物にすぎない地上の人間が、天空の行動に口を挟める筈もない。
 それを敢えて行なえば……待っているのは身の破滅だけだ。
「例え相手が人であれ竜族であれ……天空には天空が果たすべき義務と責任があると私は思っています。この“黄昏の世界”が陰謀によってのみ維持される世界となるのは、私には到底耐えられません」
 一息つく為にアルシアは香茶の注がれたカップに手を伸ばす。それを口元近くまで運んでから、僅かに表情を変えた。
「……ですが、それは私の抱いていた幻想なのかもしれません」
「………?」
 その表情の変化よりも口調の変化に気付いたヴァネッサが不審そうな表情を浮かべる。そんなヴァネッサの態度を尻目に、アルシアは一気にカップの中身を飲み干した。
 その変化がある覚悟に基づいた物だと、ヴァネッサが気がつくまでにそう多くの時間は必要なかった。
「……天空の秘めたる真相を知った以上、私は……」
 言葉と同時にアルシアの唇の右端から一筋、真紅の流れが生まれる。
「消される事になるのですね……秘密を永遠とする為に……」
「アルシア……貴女、気づいていて……」
 ヴァネッサの言葉に、アルシアは僅かに微笑んだ。
「ヴァネッサ様に恨みごとを申しあげるつもりはありません……それがヴァネッサ様に課せられている義務なのですから」
 次第に心臓の鼓動が高まってくる。胸も苦しく言葉を続けるのも困難に感じられて来る。
「ですが、死に行く者の遺言として、最後に無礼な言葉をお許しください」
「………」
「信仰とは、与えられる物でも与える物でもありません。人が自らの意志によって目覚める事によってもたらされる物なのです。今のように信仰を強いるような状態が続けば……それは、この“黄昏の時代”の真の終焉となるでしょう」
 もう霞んで目も良く見えない。頭もぼうっとして自分の言葉もはっきりとしなくなってきた。だが、これだけは言っておきたい……。
「人は大いなる加護のもと、今まで世界に存在してきました。しかし、それはまた逆も然りでしょう。人の純粋無垢な信仰があってこそ神もまた大いなる力を維持し続ける事が出来たのですから……」
「……こんな場面でなければ、そして聞いているのが私で無ければ、不敬罪として裁かれても文句は言えないところですね 」
 妙に感慨深げなヴァネッサの言葉に、アルシアが僅かに微笑む。
「いかに優秀な事で名を馳せる異端審問官達でも、まさか死後の世界へと旅立つ私を捕らえて審問会にかける事は出来ないでしょう」
 アルシアにしては珍しいユーモアめいた皮肉。あるいはアルシアはもっと以前から、神殿組織ひいてはこの世界そのものに絶望していたのかもしれない。
「私は今まで全ての思いを押し殺して、至高神様の忠実な下僕として生きてきました……ですが、人生の終わる瞬間ぐらいは自分に正直になりたいと思います」
「もっと早くから、貴女はそうしておくべきだったわ」
 沈痛なヴァネッサの表情。それはアルシアが初めて見た彼女の人間的弱さの側面だった。少なくともアルシアの知るかぎり、彼女が人前で自分の弱さを見せた事は一度もない。
「貴女にはその権利があったのだから……例え我らが主であっても、決してそれを咎めたてたりは出来ない程にね」
「ヴァネッサ様……」
 アルシアの身体が大きく前に傾ぐ。もう時間は無い。一瞬後にはアルシアの命の炎は燃えつきてしまうだろう。
「私たち姉妹を……あのどん底から引き上げてくれた事を……感謝します」
 脳裏をかつて自分達が経験した過去のビジョンが過る。幼い双子の身体を打つ冷たい雨。屋根もなく壁すらまともにない廃屋。わずかな壁に二人寄り添い、破れた毛布一枚で寒さをしのいだ夜……。神の栄光に包まれたこの都市の、決して誰も直視しようとはしない汚点。
 身体中の最後の力を振り絞り、アルシアはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ヴァネッサ様の前途に……大いなる……至高の……至高の光がありますよう……に……」
 言葉は最後まで続かなかった。非現実的なスローモーションな動きでアルシアの身体が前に倒れる。ワンテンポ遅れて、カップやポッドが床の上で砕け散る甲高い破壊音が響いた。
「………」
 ヴァネッサは無言でその光景を見つめていた。目前で一人の命が奪われた事に対する感慨は無い。良くも悪くも、その程度の事には馴れている。馴れなくては、今の地位に辿り着く事など出来ない。
「………」
 すぅっと、ヴァネッサの瞳から涙の筋が産まれた。確かに人の死には馴れている。しかもそうなる事を承知の上で、ヴァネッサはアルシアに毒を盛ったのだから。
「もし、それが誰かの上に光さす事があるならば……それは貴女の高潔な魂にこそ相応しいわね」
 馴れてはいても納得は出来ない。いや、納得などしてたまるものか!
「……どうやら終ったようですね」
 ヴァネッサの背後から、尊大としか表現しようのない重々しい声がかけられる。それは、偉大なる天空の者に特有の口調だ。
「えぇ……終わりましたよ。なにもかもね」
 どこか突き放すような乱雑な口調。彼女の怒りの全てが、そこに込められていた。
「天空が望むように、全ての証拠は抹殺されました。もう、真実を知る者はいません」
 ヴァネッサの言葉に発言者、戦乙女セレスは苦笑じみた表情を浮かべた。
「不服そうですね、ヴァネッサ司教」
「……不服に決まっているとは思いませんか?」
 およそ友好的とは言い難い言葉でヴァネッサは続ける。これまた不敬罪物の無礼だが、少なくとも今の彼女は天空の使者を相手に上品に振る舞うゆとりは無かった。
「貴女は真実を闇に葬り去るよう命じた。その言葉に従い、私は自分の片腕とも信じていた優秀な神政官を自らの手で葬りさる事になりました……そして、今や真実を知る最後の一人となった私に、同じ運命が訪れないと、果たして誰に言えるのです?」
 ヴァネッサの言葉に、セレスは僅かに首を振った。
「それが、貴女流の反抗意志の表明ですか……少なくとも貴女は、この期に及んで自分の身を案じるような人物であるとは思えませんがね」
 ヴァネッサの態度が、どうちらかといえば幼子の反抗的態度と同列にあるものだとセレスはとうに見抜いていた。もし、ヴァネッサが本当に自分の保身に走るような卑下た人物であれば、真っ先に今回の粛正対象となった筈だ。
「……今回に限らず、私はこの手を多く汚してきました」
 セレスの返事に、ヴァネッサは口調を穏やかな物に変えて答える。
「罪無き者を破滅させた事も一度や二度ではありません。それも、全ては至高神様の御威光を守る為とあらばやむを得ないでしょう」
「………」
「ですが、将来神殿を背負って立つべき優秀な人材を、自らの手で葬り去るような真似が前例として定着しては神殿組織そのものの未来がなくなってしまいます」
 そこまで言ってから、ヴァネッサはセレスの表情を窺う。セレスの無言の表情は、彼女に先を続けるように促していた。
「結果には責任を取らねばなりません……例え今回の大元が天空から示された命による物であったとしても、私は神殿組織の未来に取り返しのつかない損失を与えたのですから」
「それでは、貴女はどう責任を取ると?」
 そこまで聞いてから、初めてセレスは口を開いた。
「誰からも追及される事のない過失に対して、どう責任を果たすというのです?」
「後片づけがすみ次第、神殿より退職します」
 ヴァネッサの返事は、短い物だった。
「神殿より授けられたヴァネッサ・アール・スティシアの名前も今日限り返上します……私は、かつての自分、ヴァネッサ・エクスモアに帰ります」
 そこまで言うと、ヴァネッサは肩布と至高神のシンボルを乱暴な手付きでテーブルの上に置いた。それは自らの意志で地位を捨て去る何よりも明確な意思表示だった。
「全ての責任は、この名前によって果たされたのです。今後この名前を継ぐ者は、その意味をよく知るべきでしょう」
「蟷螂の斧……という言葉を知っているかしら?」
 やれやれとでも言いたげな態度でセレスは軽く頭を振る。
「貴女が振り上げようとしている斧は、螳螂のそれよりも更に細くか弱い物だと解っているのかしら?」
 ヴァネッサは何も答えない。そして、セレスも敢えて返事を求めようとはしない。返事など必要はない。お互いに、答えは解りきっているのだから。
「……取り敢えず、遺体はこちらで引き取らせて貰いますよ」
 これ以上不毛な会話を続けでも意味がないと思ったのか、セレスは一切の反論を許さぬ強い口調でヴァネッサに告げた。
「この神殿に、シュールド・アルシア・ファーレインと言う名の神政官など存在しなかった。それが今後の正史です」
「……お言葉のままに」
 これ以上はないというほど見事な事務的口調でヴァネッサは答えた。
「全ては至高なる光の正当性を守る為、速やかに処理いたします」
「宜しい」
 セレスは短く答えた。
「貴女の政治的手腕は、天空でも高く評価されています。後事は全て任せましたよ」
 ヴァネッサも無言で頷く。これ以上天空の使者と言葉をかわすのは、到底我慢出来そうにもなかった。
「一言だけ言わせて貰えば……」
 無言のまま最後の仕事を果たそうと動きはじめたヴァネッサの背中に、セレスが短く声をかける。
「我ら戦乙女も、元は貴女達と同じく“導かれし者達”だったわ……その苦痛が理解出来ぬ筈もない」
「………」
「だが、我らは主の為にあらゆる汚名も苦痛も耐えなければならない。その為に我らは戦乙女として選ばれたのだから……」
 セレスの言葉をヴァネッサは最後まで聞こうとはしなかった。
「……そういう事でしたら、私の方から申し上げる事はもう何もありません」
 その一言を残し、ヴァネッサはセレスを残して部屋から歩き去って行った。

 イシス神聖紀14782年“至高なる勝利の月”/ラーム神聖暦ラル5548年,創師の休息。
 この数日間に起きた一連の事件について、公式の歴史書は短く一言『不幸な事故』とだけ記している。その事件の背景も推移もその全ては伏せれたままとなり、神殿関係者達も誰一人としてこの件について二度と触れようとはしなかった。
 数日後に神殿を辞職したおそらくは事件の概要を一番把握していたであろうヴァネッサ・アール・スティシア前司教、現ヴァネッサ・エクスモアも一生涯この事件について語る事は無かった。
 火災によって焼け落ちた巡礼者礼拝堂と祭儀場に関しては隠しとおせるものでもなく、『原因不明の出火』による被害だと説明された。
 だが真の発端である『イシスの聖印強奪』に関する事項は永遠に封印され、事件そのものが歴史から抹消される事となったのだ。
 後に伝わる歴史書にシュールド・アルシア・ファーレイン及びセルシア・ファーレインの名前は一切登場しない。

 在野に下ったヴァネッサ・エクスモアは私塾を開き、神殿を目指す者達の教育に残りの生涯を捧げた。彼女の薫陶を受けて育った神官達は、その後に歴史に少なからぬ影響を与える事となり、後に“エクスモアの子供達”と呼ばれる事となる。
 事件の数年後に結婚し一児を得るものの、その子供の消息は歴史に記されれはいない。
 またヴァネッサ本人も、更にその数年後には至高神神殿史上最悪の愚行であった“終末異端審問裁判”によって有罪を宣告され、絞首刑に処されている。
「それが無知のもたらした結果であっても、因果は必ず巡ります……私一人を始末した所で、その大きな輪の流れが逃れられる物でもありますまい……」
 処刑されるに際して、それがヴァネッサの残した言葉だと伝えられている。
 また、信憑性は薄い物の、以下のような証言もある。
「遥かな時を経て、やがて私の血と意志を受け継いだ者が神殿に革命とも呼べる程の衝撃を与える事となるでしょう……エクスモアの名を継ぐものは、二度と過ちを繰り返しはしない」
 この証言については聞いた者が牢番のみであったという事もあり、歴史的には偽証だとされている。

 ともかく、地上に関してはこれで全ての決着がついたのである。この件に関して、天空は一切のコメントを挟まなかった。
 また一部では便乗的行動開始説が唱えられていた竜族も、不思議と沈黙を守ったままであった。