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届きえぬ想い、
       叶えがたき願い

序章

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

終章



 ……遥か昔、至高神と竜神の間で激しい戦いがあった。
 辛うじて勝者となった至高神は敗者である竜神を歴史の影へと追いやり、世界を自らの統治する理想郷としたのである。
 しかし、それでも。たとえ影に埋もれても敗者は復仇の時を忘れない。
 時代は移ろい、至高神の勝利を祝う祝日を前にして、ついに竜族の戦士が行動を起こした。

第五章

 破局は、なんの脈絡もなく唐突に訪れた。
 街中が寝静まった真夜中、不意に巡礼者礼拝堂と神殿祭儀場から火の手があがったのだ。
「巡礼者礼拝堂および神殿祭儀場にて原因不明の出火が発生……!」
 緊急を告げる知らせが神聖衛士団本部に付いた時、事態は既に手遅れだった。巡礼者礼拝堂の一角から発生した炎は、瞬く間に建物全体を飲み込み、衛士達が駆けつけた時には、もはや消火の手立ては完全に無くなっていた。それどころか、隣接する建物にさえ飛び火し、今や火災の規模は空前のものになるであろう前兆さえ見せていたのだ。
 また距離的には街の正反対に位置する神殿祭儀場での出火も深刻な状況を見せはじめている。もともと祭儀が執り行われる時を除いて普段は無人に近い場所である。それだけに初期被害は少ないものの、逆に初期対応は遅れざるを得ない。
 どちらの現場にも最初に駆けつけたのは最寄りの駐屯所にいた衛士達だったが、彼らは特別な防災知識を持っているわけではなかった。その為かなり素早く初動行なう事が出来たにも関わらず、彼らは被害が広がってゆくのを手を拱いて見ているしかなかった。
 本職の防災官達が現場にたどりつくまでに果たしてどれほど事態悪化するのか、彼らには想像するしか方法は無かった。

「無能の程度にも、限界がある!」
 その第一報を用意された寝所で受け取った時、ディアーネは報告者をそう一喝した。
「この完全管理された街において、自然の火事などあり得る筈がなかろう! 同一犯の仕業である事ぐらい気付かぬわけもない! すぐに街を閉鎖しなさい!」
 今回の自分の役目は飽く迄も連絡係である。その為に彼女は直接的な介入を極力さけてきた。だが、それも限界だ。やはり地上の者に、事態を収拾させる能力などある筈が無かったのだ。
「それともまさかこの程度の事に、わざわざ私の指示を仰ぐつもりじゃないでしょうね!」
 凄まじい怒りの形相をみせるディアーネに、たじろぐ様な表情をみせながらも、報告者は辛うじて言葉を続けた。
「もちろん、言われるまでもなく警備の者は動員しております。ですが……」
「ですが……?」
 殺意さえ感じさせる冷たい瞳。なんとか気丈に任務を果たそうとしていた報告者も、この視線には流石にたじろいでしまう。それでも最後の勇気と最大限の職務意識を振り絞って言葉を続ける。
「何分夜中の……しかも突然の出火でしたので、建物内に多数の巡礼者達が取り残されています。その救助の為にはどうしてもある程度の人数が必要に……」
「くっ……!」
 今度はディアーネが返答に詰まる番だった。至高神の威光の守護者たる誇りと矜持にかけて飽く迄も犯人の追跡を命ずるのは簡単である。戦乙女たる自分の命令に背ける者が、地上にいる筈もない。
 だが、それは同時に至高神の威光に著しい傷をもたらすことになるだろう。純真無垢たる信者達を見捨てて飽く迄も犯人を追及するような事があれば、それは即ち無力な信者を見捨てる事になる。その事によってもたらされる政治的失墜は、到底取り返しのつかない失点となるだろう。
 主な敵たる竜神の眷属の大半がその勢力を失ったとはいえ、未だ母たる至高神様に従おうとしない調停神とその一派。始終無言を貫いてはいるものの、その動向は決して無視できぬクラインクレインとクレインクラインの双子姉妹。至高神様の敵となる存在には事欠かないのが現実である。世界は一応の安定を保っているとはいえ、その全てが至高神様の権威に従っているわけではないのだ。
 現状における政治的失点は、そのまま致命傷にさえなりかねない。
「ならば、神官だろうが神政官だろうが使える者は全員動員しなさい! この際、使える者は例えボランティアでも構いません!」
「はっ……! た、ただちに!!」
 足をよろめかせながら、報告者が慌てて部屋を飛び出す。これ以上ディアーネの機嫌を損ねる事態など悪夢以外のなにものでもない。
「まったく……忌々しい」
 寝着を乱雑に脱ぎ捨てながらディアーネは心底腹立たしそうに呟く。
(いくら直接指揮を取れぬ身であったとはいえ、これではまるで私は道化じゃないの……これでは、到底地位の向上は望めない……)
 フォルシアのほくそ笑む表情が脳裏をよぎる。これが自分の失点でない事に間違いはない。至高神様も特に今回の件を咎め立てしようとは思わないだろうし、仮に何がしかの責任問題に発展するような事があったとしても戦乙女の長フォルシアがその全てを自ら負うだろう。
 フォルシアとはそういう性格の持ち主だ。
(あの偽善者が……!)
 強く噛み締めた奥歯が鈍い音を立てる。全く忌々しい。あの女は根っからの善人なのだ。
 人を罰する事よりも許す事を考える。そして、任務遂行の為ならば、後に自分がどのように評価されようとも意に介さない。汚名を被る者が必要とあらば、フォルシアは喜んで自分の身を差し出すだろう。
「だが、私は絶対に認めない……認めてたまるか!」
 黄金の輝きを放つ胸鎧を身につけながら、ディアーネは低く呟く。
「あの女は……いつか絶対に至高神様に仇なす存在……それを認める事など出来るものか!」
 寝台の脇に立てかけられた二本の細剣に鋭い視線を向ける。この剣先を至高神の威光に歯向かう者に向ける事を誓い彼女は戦乙女となった。それを遂行する事に、躊躇いや迷いはない。
「……まぁ、今はそんな事はどうでもいいわ」
 身につけた胸鎧の冷たい感覚が、彼女にいく分かの冷静さを取り戻させた。今はフォルシアに対する敵愾心を燃やしている場合ではない。起きてしまった最悪の事態に、なんとか対処するのが先決だ。
(火災はほぼ正反対に位置する二ヶ所から同時に発生した……犯人は一人ではなく複数だったというワケね……)
 確固たる根拠があったわけではないが、誰もが今回の件は単行犯の仕業であると考えていた。
 だが、どうやらそれはとんだ思い違いだったらしい。ほぼ同時刻に全く違う方向から火の手が上がったという事は即ち複数の実行犯が存在する事を意味する。
(全く面倒な事を……!)
 ここに至り犯人の目的ははっきりした。犯人共は逃げ遅れた巡礼者礼拝堂の信者達を半ば人質のように利用してこの街から脱出しようとしているのだ。
 いかな理由があろうとも絶対に信者を見殺しには出来ない神殿組織の弱点を突いた見事な作戦だ。この混乱の中ではどれほど厳重な警備体制を敷いた所で、首尾よく犯人を捕らえ得る可能性は低い。
「今回ばかりは……どうしようもないわね……」
 打つべき手段が何も無いという事が、とてつもなく疎ましく感じられた。

「はてさて……ついに馬鹿騒ぎの総締めくくりというわけね……」
 夜景を赤く染め上げる炎の舞いを、遠く離れた宿場のベランダから眺めながらラディッシュは低く呟いた。炎その物が見えているわけではないが、ゆらめく炎は、この街を囲っている透明ドームに煌々と赤い煌めきを反射させていた。
 現場は随分と遠くであるにも関わらず、街のざわめきはここまではっきりと聞こえてくる。至高神の威光によって完全に守られていると信じていた住人達には、まさに青天の霹靂とも呼べる大事件だろう。
 もっともラディッシュから見れば、この程度の事件などありふれたものに過ぎないのだが……。
「まったく、この馬鹿騒ぎがどんな喜劇に落ちつくことやら……」
 ラディッシュの呟きが終わるよりも早く、扉を軽くノックする音が聞こえてきた。そのノックが告げる来訪者に見当が付いているラディッシュは、心底面倒臭そうにため息をもらした。
「そして、これがその中でも最悪の後始末なワケね……」
 全くもって気の進まない会見ではあるが、だからといって放っておく事もできない。何しろ竜司教ゼファー・セイレーンより託された役目の中には、この気の進まない会見も含まれているのだから。
「どうぞ、鍵は掛けてませんよ」
 幾分気を取り直してラディッシュはできるだけ上品な物言いで来訪者に告げる。相手が相手たけに、いかに自由奔放を身上とするラディッシュも、儀礼や形式を無視するわけにはゆかなかった。
「……不用心な事ですね。それとも、この用心の無さが高名でなる竜騎士殿の余裕なのかしら?」
 言葉と共に部屋へと入ってきたのは、戦乙女セレスだった。本来ならば仇敵どうしの関係ではあるが、非公式な会見においてまでそれを持ち出す程、二人とも野暮な性格はしていない。
「形式的な誉め言葉と解っていても、賞賛されるのは悪くない気分ね……まぁ、お掛けになってはいかが? それとも立ち話の方がお好み?」
 ラディッシュの言葉に、セレスが僅かに笑みを浮かべる。全くもって回りくどいやり方だが、お互いの立場を考えるとこれもやむを得ない。ましてや主であるイシス・ハーン様に何も告げずに行なっている会見だ。まったく。どうしてこう“政治的行動”というのは清廉なイメージを持つことが出来ないのだろう……。
「では、用件を伺わせて貰いましょうか」
 セレスが着席するのを見てその反対側に腰を降ろしながらラディッシュが言葉を続ける。
「まさか、お互いの交友を深めたいが為にわざわざご足労されたなどとは言わないでしょう?」
 ラディッシュの皮肉な言葉に、セレスは面白くもなさそうに答えた。
「まぁ、それも悪くない提案ではあるわね……だけど、残念ながら今回はもっと生々しい現実的な会談だとカルラ殿もご存じの筈だと思いますけど?」
「ふん……」
 セレスの返事に、ラディッシュは不服そうに鼻を鳴らした。しかし一瞬後には自分の為すべき事に思いを馳せ、改めて口を開いた。
「まぁ、いいわ……さて、ここで強調しておきたい事は、私は現在“竜族”を統べる代表者であるゼファー・セイレーンより全権委任された上でここにいる。それに対して、貴女はどのような立場であるのか、確認させて頂きたいのだけど」
「残念な事に……」
 言葉とは裏腹に、微塵も残念そうな素振りも見せずセレスが言葉を続ける。
「私は至高神様より何ら権利の委託を受けずしてここにいます。私がここで何を口にしても、それは至高神様の意向として存在するわけではありません」
「それじゃぁ、お話しにもならないわね」
 やれやれとでも言いたげにラディッシュは大袈裟に肩をすくめて見せる。
「そんなんじゃ、こちらの約束損じゃない」
 ラディッシュの言葉も最もである。こちらは政治的全権を持って交渉に挑んでいるのに、相手の発言には政治的効力は無い。言い換えるならば、こちらは約束を守らなければならないのに、相手は強いてそうする必要は無いという実に都合の良い状態だ。
 馬鹿にしているとまでは言わないが、ふざけていると言わせて貰って構わないだろう。
 分が悪いとか割りに合わないとかいう以前に、既に交渉とは呼べない。
「……しかし、私は戦乙女の長フォルシアより今回の件に関する全権を委託されている。それでは不充分かしら?」
 当然なラディッシュの不満をなだめるべく、セレスが言葉を続ける。
「確かにここでの会見は我らが主、至高神様になんら影響を及ぼす事のできない性格の物。しかし、戦乙女フォルシアがその名誉にかけてここでの交渉結果を遵守すると誓っている」
「はん……この私に見た目の栄誉よりも、陰の実を選べというワケね」
 ラディッシュが初めて面白そうな表情を浮かべた。
「至高神の前科を思えば、まぁ、確かにそちらの方が遥かに説得力を持ってるわ」
「……つまり、我ら至高神様の眷属は信じるに足りないが、元の同志であれば信用に値するとおっしゃりたいのかしら?」
 皮肉なセレスの言葉に、ラディッシュはやや撫然とした口調で答えた。
「はん……竜族の中に、フォルシア個人を信用するようなお人好しがいるとは思えないわね。飽くまでフォルシアの背負っている立場を信じるだけの事よ」
 二人の間に短い沈黙が訪れる。フォルシアの持つ複雑な背景がこの状況を産み出している。
 至高神の側から見ても竜神の側から見ても、フォルシアとはそれだけ特別な存在なのだ。
「さて……あまり無駄話にかまけている場合ではないわね」
 最初に口を開いたのはラディッシュの方だった。
「結論から先に言うと、竜司教ゼファー・セイレーンは現時点において至高神の勢力と直接的に争う事を望んでいない。いかなる形であっても、今回の事件に関して何ら関与するつもりはないと」
「つまり、身内を見殺しにしても、当面の現状を維持したいと言うわけね」
 どこが侮蔑の響きが隠せない言葉でセレスが言う。
「貴女達の指導者は、なんとも現実的な判断を下しているのね」
「今回の件は、ゼファー・セイレーンに対して一言の相談も無く行われた勝手な行動。よってこの件に関して、竜族の総意は不干渉を選ぶしかないわ」
 ラディッシュの言葉は、現状で竜族が置かれている立場を何よりも雄弁に語っていた。
 かつての戦いに敗北し疲弊しきっている今の竜族に、至高神の勢力と争うだけの力は無い。心情としてはともかく、現実問題として下手な対立関係を作るワケにはゆかないのだ。
「戦乙女フォルシアの意向としても、そちらの申し出を断る理由はありませんね。我らとて今更竜族との全面対決を望むものではありません。貴女方が今回の件への深入りを望まないというのであれば、我らとしても殊更事を荒立てようとは思いませんから」
 セレスの口調に、どこか勝ち誇る響きを感じたのは、果たしてラディッシュの気のせいだろうか? もっとも聞き違いじゃなかったとしても、現状がこうである以上、相手の優越感も仕方の無い事だ。
「言っておくけど……」
 自分でも余計なつけ足しをしていると思いつつ、それでもラディッシュは敢えて言葉を続けた。
「これは今回限りの臨時休戦協定。竜族が永遠に至高神に膝を屈する事を意味している訳ではないのだから、勘違いしないで欲しい物ね」
「解っています」
 ラディッシュが半ば予想していた通りの態度と口調でセレスが答える。
「我らとしても誇り高き竜族に、無条件での服従などもとより求めるつもりはありません。今回はたまたま利害が一致しただけのこと。ただそれだけの事です」
 その言葉に何の感情的要素も含まれていないのが、逆に何とも腹立たしい。せめて優越感や憐れみといった当たり前の感情が介入していれば反感を示す程度の抵抗は出来るのに、全くの事務的対応では怒る事さえも出来ない。
「それでは、私も多忙の身ですから、この辺で失礼させて貰いましょう」
 それは会談の終了を告げる言葉だった。
「有意義なお話しができて、とても幸いでしたよ。竜騎士カルラ殿」
 言われるまでもなく、それは大した皮肉の言葉だった。

 火災の報を聞きつけたアルシアが巡礼者礼拝堂に駆けつけた時、事態は既に最悪の状態を迎えつつあった。炎はまるで建物を包囲するかのように燃え盛っており、消火活動の方はまるで効果を上げていない。
 なお悪い事にドームで覆われたこの都市には熱も煙も逃げる場所が無く、人体にとっては致命的なまでに有害な熱と煙は巡礼者礼拝堂のみならず周囲の建物にさえ影響を及ぼそうとしていた。
「……少しばかり読みが甘かったわ……」
 悔恨の表情を浮かべ、燃え盛る炎を睨みつけるように見つめながら、アルシアが小さく呟く。
(ここまで迅速に行動を起こすなんて……一体何が彼らを早急な行動に駆り立てたのかしら……)
 アルシアの読みでは、犯人達が行動を起こすのは三日後の新月の夜だった。一筋の光さえもささない真の闇こそ、行動を起こすに相応しい時だ。どれほど時代が進歩しても、夜の闇は人間の行動を著しく掣肘する。
 その意味において、この行動は確かに性急過ぎるように思える。
(まさか……感付かれたのかしら……?)
 安全性を無視して行動を起こさざるを得ない理由として考えられるもっとも妥当な理由だ。
 しかし、どちらにしても予想外の行動である事実に変化は無い。
「こんな時にセルシアったら、姿が見えないんだから……」
 こういう時に限って姿が見えないというのも困ったものだ。
「……まことに困った事になりましたよ」
 ぼんやりと考え事をしていたアルシアを見つけ、顔見知りの神官が慌ただしく話しかけてきた。
「何しろ、夜中の上に突然の出来事でしたからね……幸い巡礼者の大半は脱出出来たものの、建物内にはボランティア連中がまだ何人か取り残されているんですよ」
「救助作業はしているのでしょう?」
 無神経な物言いに、ややムッとした口調でアルシアが尋ねる。
「有志の人達の身を救えなかったとあっては、この都市の防災組織そのものの沽券に関わりますよ」
 最後の言葉はもちろんあてつけだ。これだけの騒ぎが起きてしまった以上、今更沽券もへったくれもない。先日の騒ぎと同じようにまたぞろ多くの高級司祭が現在の地位を追われ、中堅神官達が職を失う事になるだろう。
「それが……どうにも手のつけようがないんですよ」
 現在のアルシアが最高法院の代弁者である事を知っているせいか、普段と違って嫌に遜った物言いで神官が答える。
「炎を消し止めることは、事実上絶望視されています。まさか、この炎の中に救助隊を突っ込ませる訳にも行きませんからね……」
 とどのつまりは見捨てるという事らしい。神殿から見れば、ボランティアの命などその程度の重さしかないのだ。
「……つまり、貴殿は無実の命を救うよりも、この混乱に乗じて脱出を計るであろう犯人の捜索に重点を置くというのですね」
 高級司祭達の顔を一人一人思い浮かべながら、アルシアは睨みつけるようにして尋ねる。ここで下級神官の一人に何を言っても無駄な事は良く知っているが、それでも言わずにはいられなかった。
「……はぁ、そう言われましても、それが上層部の意向ですから」
 アルシアの予想通り、情けない表情を浮かべながら神官が答える。
「私には決定を覆えせる力などありませんし……それに実際、救助活動は困難です」
 その返事を責める気にはなれない。この神官がどちらかと言うとお人好しの部類に入り、信者と親切に接する人物である事は知っている。本心から言えば、取り残された人達を助け出したいと思っている事だろう。
 だが彼は組織を構成する末端員に過ぎず、どう足掻いた所で上層部の決定を覆す力を持たない。かくいう自分とてその立場に大差は無い。何しろ最高法院の後ろ楯を得ている今においてさえ、この場の決定を覆すには至らないのだから。
 己が無力に固く唇を噛み締めたアルシアの脳裏に、昼間出会ったボランティアの少女の顔が浮かび上がる。それはこの街の中で、彼女が貴重に思っている唯一の何かだった。
「では、私が救助に向かいます」
 毅然たる表情でそう宣言したアルシアを、件の神官が慌てて制止する。
「待ってください、中は既に火炎地獄と化しています……お気持ちは理解出来ますが、ここで貴方の身を危険に晒すわけにはゆきません!」
 そんな事になったら、処罰が恐いから? そう言いかけてアルシアは口をつぐんだ。神官が真剣にこちらの身を案じているのは明白だったし、仮に彼の本心がそうであったとしても、今ここで口にしてよい類の科白ではなかった。
「お気持ちは有り難いのですけど、最高法院の代弁者として私は神殿に仕えてくれている人達の安全を保証する義務があります……それを怠るような事になれば、組織としての神殿はお終いですよ」
「しかし……」
 アルシアの言うことに一理ある事を認めながらも、神官は躊躇いの表情を見せる。この炎の中にアルシアが入っていけば、到底助かる見込みはない。
 そうと解っていて、みすみすアルシアを死地へと向かわせられる筈がない。
「……その役目、オレが引き受けてもいいぜ……」
 不意にアルシアの背後から声が掛けられる。その声に聞き覚えがあったアルシアは、軽い驚きの表情で声の方を振り返った。
 そこには昼間会った男、ミッチェル・サーフォードが立っていた。
「……貴方、まだこんな場所に居たのですか?」
 予想外の展開に、アルアシはつい正直な感想を口にしてしまう。その事に気付いたアルシアが慌ててフォローの言葉を言うよりも早く、男は言葉を続けた。
「やっぱり気付かれていたな……後で誘導尋問に引っかかった事に気付いたが、既に手遅れだったワケだ」
「それだけ解っていながら、何故こんな所にいるのです? この事故は、まさにその為のチャンスだったでしょうに……?」
 アルシアの疑問には直接答えず、ミッチェルは燃え盛る礼拝堂の方に視線を向けた。
「ここは……虚栄た偽りに満ちたこの場所で、唯一の真実がある場所のようだな。多分……オレ達や、オレ達の仲間が羨望し、渇望していた物だったんだろう」
 ミッチェルが何を考えているのか、正直アルシアには分からない。だが、一つだけ間違い無い事がある。この男は……ミッチェルと名乗る男は、既に“死”を決心している。
「貴方は一体……」
「あんたの探し物は、多分こいつだろ……」
 納得いかないように質問を発しようとしたアルシアの口を、ミッチェルは古ぼけた小柄な袋を投げて寄越す事で遮った。
「偉大な竜騎士が言っていた。オレは所詮“戦士”に過ぎない、とね……そうさ、オレに出来る筈が無かったんだ。例え手に入らないとしても、望んでいた物を自分の手で壊してしまう事などな……」
 そこまで言ってから、ミッチェルは一歩前に踏み出し、そして振り返って最後の一言を口にした。
「今回の騒ぎは、全てオレが仕出かした事だ……こんな事を頼めた義理ではないが、せめて妹だけは見逃してやってくれよ!」
 そう言い残すと、周囲の制止の声も聞かずに燃え盛る礼拝堂の中に姿を消した。
「……あの、アルシアさん」
 側で事態の推移を呆然と見守っていた神官が、ミッチェルが去った事で我に返りアルシアに質問を発した。
「今の男……まさか……?」
「彼と私の会話の内容は、今すぐここでお忘れなさい」
 アルシアは断固たる意志を表情と声で示した。
「彼は善意で取り残された者達を救おうとしている勇者です……それ以外の事実など、今は必要ありません」
「そうですね……確かに私も何も聞きませんでしたからね」
 アルシアの言葉の裏に何か特別な何事かがある事を察したらしく、神官は素知らぬ表情でアルシアに話を合わせる。
 あるいは、これが神殿上層部に対する彼なりの反抗意志の表明だったのかもしれない。

 結局、ミッチェルの行動により三人のボランティアが救い出された。最後の一人を救うべく彼が再び建物に侵入した後、轟音と共に礼拝堂の建物はついに焼け落ちた。
 ミッチェル・サーフォードは、普段なら敵陣営の構成員と見なしている相手と共に、炎の中へと消えて行ったのだ。

 それはある程度予想された事だったので、レイチェルはさほど慌ててたりはしなかった。
 約束の時間はとうに過ぎているにも関わらず、待ち合わせの場所であるこの路地裏にミッチェルは姿をあらわそうとしない。普通なら兄の身に何かが起きたのかと心配するべき場面ではあるが、正直な話レイチェルは自分の兄がここに現われる可能性は無いと思っていた。
 それだけに路地の入り口付近から足音が響いて来た時、その以外さに返って呆気にとられてしまった。
「兄さん……」
 呼びかけようとして、レイチェルは途中で言葉を切る。その足音は明かに女性の物だったからだ。
「何者!」
 腰の長剣に手を添えながら、レイチェルが鋭い誰何の声をあげる。もっとも、これはいらぬ動作であったかも知れない。この街にいる者は兄であるミッチェルを除けば、その全員が敵である。今更尋ねるまでもない。
「なるほど……あんたが将来の竜騎士様やゆうわけや……」
 足音は次第に近くなり、やがて路地の入り口で止まる。そこには光を逆行にして一人の女性が立っていた。
「うちの姉さんは、やっぱ偉いわ。何の情報も与えられず、それであんた達まで辿り着いたんやからね……」
 その人影はセルシアだった。街に火の手が上がると同時に、彼女はセレスの指示に従ってこの場所へと向かったのだ。
 やむを得ない事とはいえ姉を騙すような形になってしまったのは悔やまれるが、今はそんな感慨に耽っている場合ではない。
「さて……お互いあまり時間はあらへんのやからね……さっさとケリをつけようや」
 背筋に何か冷たいものを感じながら、レイチェルはゆっくりと腰の長剣を抜き放つ。相手は全くの素手であり、武器を隠し持っているような雰囲気でもない。
 だが、彼女の直感がけたましく警告を発している。あの女は危険だと。
「どうしたん? そっちが来ぃへんなら、こっちから行かせてもらうで!」
 言葉と同時にセルシアが動く。
 反射的にレイチェルは長剣を振りかざしたが、その一撃が振るわれるよりも早くセルシアは背を低く屈めた格好でレイチェルの懐まで飛び込んでいた。
「あぐっ……!」
 腹部に走る鈍い衝撃と激痛。あまりの痛みにレィチェルの口から堪え切れない悲鳴がもれる。一体自分の身に何が起きたのか、まるで理解する事ができない。
 やがて握力を失った手から長剣が滑り落ち、石床に当って甲高い音を立てた。
「あ、貴女は……!」
 口から盛大に鮮血を漏らしながら、レイチェルが喘ぐように言う。まさか、素手の一撃で致命傷を与えられるとは……そんな馬鹿な事があるなんて。
「……悪いね」
 言葉とは裏腹に、全く悪びれる様子も無くセルシアは声を掛けた。その右手首から先は、完全にレイチェルの腹部に埋まっている。いかに防具で覆っていない部分とはいえ、素手で貫くとは決して生半可な腕前の持ち主では無い。もっとも、今のレイチェルにとってはどうでも良い事だったが。
「うちは全く魔法の類なんて使う事できへんけど、代わりに一種の硬気功が使えるんよ」
 半ば自嘲的に言葉。この能力があるからこそ、セルシアはアルシアと共に入れるのだ。セルシアには知らされていないものの、上層部はいずれ彼女を始末用員(ようするに暗殺者)として鍛えるつもりさえあった。
「あんた自身に恨みがあるワケやないけどね……あんたに生きとってもろうては、うちらが困るんや」
 セルシアの言葉にレイチェルは何か言い返そうとしたが、激痛の余り言葉を発する事が出来ない。身体中から急速に力が抜けてゆき、今や立っているのさえ困難になりつつあった。
「あんたの身体に秘められている“スナップ・ドラゴン”の秘術は、絶対に覚醒させてはあかんのや。新たな竜騎士の誕生など、誰も喜びなどせえへん」
 勝手な言い分を言いたいだけ並べてから、セルシアはゆっくりと右腕を引き抜く。赤い糸を引きながらセルシアの手が引き抜かれ、それと同時にレイチェルはがっくりと前屈みの格好で床に膝をついた。栓を抜かれた傷口から派手に血が溢れだす。一体人体にはどれ程の血液が流れているのか不思議に思える程の大量血溜まりが足元に出来上がった。
 呆然とその血溜まりを見つめるレイチェルに近づきながら、セルシアがゆっくりと血に染まった右手を口元に当てる。そしてこれ見よがしな動きでその血を舐めた。
「……竜族の血でも、うちらと同じ味がするんやねぇ……」
 口元から手を放し、今度は高く上げる。
「あんたには悪いんやけど……まぁ、恨まんどいてや」
 セルシアの右手が振り下ろされ、何か重たい物が転がり落ち血溜まりで跳ねる異様な音が響く。あっけにとられる程簡単に全ては終ったのだ。
 なんというか、出来の悪い演劇を演じているような錯覚さえ感じる。
「……どうやら片づいたようね」
 いつの間に現われたのか、両肩で荒く息をついているセルシアにセレスが悠然と声を掛けてきた。
「これで当分は、竜騎士の名を持つ者が出現するような事もないでしょう……」
「や、約束は守って貰えるんやろうね……」
 初めて人を殺したという事実にやや動揺の色を見せながらも、セルシアがセレスに言う。
「うちはあんたらの役に立つ事を証明したで……次ぎはあんたらが誠意を証明する番や……」
 全身を返り血で染め、どこか凄惨雰囲気を漂わせるセルシアに、セレスは静かに尋ねた。
「貴女は、今でも本当に“力”を求めたいと思っているの? その朱に染まった我が身を顧みても、決心は揺るがない?」
「………」
 そう言われて、セルシアは改めて自分の身体を見下ろす。全身を真紅に染め上げている液体の正体が、先程自分が命を奪った相手の物だと気付くのに、それほど長い時間は必要なかった。さながら地獄から訪れた使者のような格好。同時に己が罪の重さを思い知らされる一種の烙印だった。
「うちは……正直言って自分が恐いんや……せやけど、今更後には引けへん。うちは姉さんを守る為なら、地獄の底にだって行ってみせるんや!」
 迷いをふっきるようにセルシアは強い言葉で答える。
「それ以外に、姉さんを守る方法はないんやから!」
「成る程……それだけの覚悟があるのならば、もう何も言う事はありませんね」
 スラリと腰の長剣を抜き放ちながら、セレスが言う。
「では、少しお休みなさい。セルシア……貴女が人として振る舞える、これは最後の瞬間なのですから……」
 言葉が終わると同時にセレスの長剣が煌めき、セルシアの胸を貫く。まったく予想していなかった唐突な出来事に、セルシアは全く対応する事が出来なかった。
「うちを……騙したんやね……」
 やがて意識が現実を認識し、それと同時に悔しげにセルシアは口を開いた。
「あんたら天空の者にとって、地上の者との約束など……」
 言葉は最後まで続かなかった。喉の奥から溢れ出た大量の血の流失で、言葉は塞がれてしまったのだ。
「………」
 まだ何か言いたそうな表情を見せたものの、時期に力を失ってセルシアの身体が地面に崩れお落ちる。それを見届けてから、セレスは自分の長剣を鞘に戻した。
「……騙されたと信じていられる方が、あるいは貴女にとっては幸せな事かもしれないわね」
 動かなくなったセルシアの身体に最後の一瞥をくれながら、セレスは小さく呟いた。