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届きえぬ想い、
       叶えがたき願い

序章

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

終章



 ……遥か昔、至高神と竜神の間で激しい戦いがあった。
 辛うじて勝者となった至高神は敗者である竜神を歴史の影へと追いやり、世界を自らの統治する理想郷としたのである。
 しかし、それでも。たとえ影に埋もれても敗者は復仇の時を忘れない。
 時代は移ろい、至高神の勝利を祝う祝日を前にして、ついに竜族の戦士が行動を起こした。

序章

イシス神聖紀14782年“至高なる勝利の月”
ラーム神聖暦ラル5548年,創師の休息

“西の大陸”北西部『ヴァリス神聖帝国』

 それは地上における至高神イシス・ハーンの玉座が設置された“黄昏の世界”最大の規模を誇る一大宗教国家の名称であった。
 この国を統治するのは当然至高神神殿であり、この国の律法は、全て神殿の教義に基づいて定められている。本来ならば至高神イシス・ハーン本人によって親政されるべき国ではあるが、大いなる主を地上の俗事などで煩わせるのは恐れ多い。従い然程重要な事でもない限り、その決定は地上に存在する神政官達が行う事になっている。
 だが神殿もそう暇では無いから、その決定権の中から神政に影響しない物についてはヴァリス神聖皇家にその権利を委任している。かの一族は遥か昔に至高神へと多大な貢献を成した英雄の末裔である。黙っていても神殿の意にそぐわぬ執政を行いはしないだろう。
 万が一、己が分をわきまえないようなことがおこれば……その者は我が身を持って己の愚かさを思い知るだけの事だ。
 もっとも、輝かしい栄光に満ちた戦乙女達の住まうこの国にそんな不埒者が存在出来る筈もないが。


 聖都ヴァリア・ポリス。ヴァリス神聖帝国のほぼ中央に位置するこの国の首都、つまり帝都である。
 全長二百キロ近くにも及ぶ完全な六芒星形をした都市であり、同時に難攻不落の魔法要塞としても名をはす都市である。周囲を囲う城壁はその全てが魔法的結界によって強化され、目には見えないものの半ドーム状の形でもの都市全域を覆っている(その為、この都市内に降雨は有り得ない)。また守備を担当している衛士達もその全員が神聖衛士であり、神聖騎士団と並んで鉄壁の守りを展開している。彼ら全員が優れた魔法戦士である事は周知の事実であり、その精強さについては疑問を挟む余地は無い。
 そして、この都市上空に浮かぶ“至高なる天空の大神殿”に存在している戦乙女達。この都市最大の防御壁は、彼女達が存在するというその事実なのかも知れない。

 時刻は夜半過ぎ。都市全体を覆う障壁のお陰であらゆる自然環境から保護されているこの都市も、夜の帳だけは消し去る事は出来ない。その理由については「正常な日常運行を守る為」と言われているが、いかにも付け足しと言った感が拭えない。後に辛辣な批評家としてその名を世界あまたに知られる事になるカロン高等司祭の言葉を前借りするならば、「至高神の御威光を持ってしても、夜の闇を払う事は叶わず」という事になるだろうか。少々乱暴な意見ではあるが、恐らく真相からそう遠く離れてはいないだろう。
 それはともかく、ともかく自然現象から隔離されていると思われがちなこの場所にも、昼と夜という名の最低限の自然現象は訪れるのだった。
 その夜のもたらす闇が、様々な意味においての行動のチャンスである事は、この聖都においても例外ではなかった。どれほど厳しい修練や訓練をつんできた人間でも夜中になれば集中力は鈍り、反応速度も悪くなる。それこそ「至高神の御威光を持ってしても」この一般的法則性を変える事は容易ではないのだ。

「……これがイシスの聖印……」
 見るからに堅牢そうな石壁に囲まれたそう広くない空間で、一人の男がゆっくりと呟きを漏らした。
「我が主の復活を阻み、我ら敬虔な信者達の悲願を阻む忌まわしき封印具の一つ……」
 自分の手の中に収まっている物体に穏やかならぬ視線を向けながら、男は更に言葉を続ける。怒りと感動。その両者が複雑に混じり合い、何とも言えぬ今の男の気持ちを作りあげていた。
「これさえあれば、我らの悲願達成に大きく近づく事が出来る」
 それは遥か五千年以上も昔からの悲願だった。狡猾な至高神に欺かれ、その力の大半を封印されてしまった我らが主、竜神ジェノヴァ。お互いの力が拮抗(実際にはジェノヴァの方がやや優勢)し、手詰まりに陥った至高神は、卑怯にも我らが主をペテンにかけたのだ。停戦と講和を提案しながら、その影で恥ずかしげもなく陰謀を企てていたのだ。
 なんと、卑劣な裏切り! そしてまるでそんな事実など存在しないかのように振る舞う厚顔さ! そして限度を知らぬ屈辱。その苦難辛苦に、主を失った我ら信者はただ耐えるしか方法は無かった。
 確かに勝者には歴史を語る(騙る)資格があるかもしれない。だが、それに敗者が黙々と従うべき義務は無い。歴史が勝者の為にあるのならば、敗者は勝者となるべき努力にこそ邁進すべきなのだ。そして勝者にはその勝利を維持する努力をせねばならない。もし勝者がそれを怠れば、立場はたちまちのうちに逆転する事になるだろう。
 そして、ついにその日が訪れた。場所が自分達の本拠地であることに油断したのか、忌むべき至高神は遂にボロを出した。我らが主を暗黒の領域に縛りつけている封印の一つを、あろう事か厳重に警備されている“至高なる天空の大神殿”聖宝庫から、神殿展示室に移したのだ。
 近く奴等にとっての祝日、五千年前の偽りの勝利を祝う式典が開かれる。それに合せて神殿宝具の一部を一般公開するために取られた処置だ。式典の開催自体は腹立たしい限りだが、同時に絶好のチャンスである事に間違い無い。あらゆる魔法的手段と人的手段によって厳重に警護されている神殿聖宝庫への侵入は難しい(というよりは殆ど不可能)だが、一般市街地近くに設置されている神殿展示室への侵入は難しくはあっても決して不可能ではない。その証拠に、自分は潜入に成功したでは無いか。
「あの竜騎士さえ果たせなかった偉業……それがこのオレの手で実現する」
 今まで多くの同胞達が夢見た望みが果たされる。それは非常に甘美な思いであると同時に、彼の栄光を保証する快挙となるだろう。多くの同胞が望み、そして叶えられる事は殆どない竜騎士への就任さえ夢ではないかも知れない。竜戦士というどちらかというと凡庸な地位に甘んじていた自分が、栄光の誉れ高き竜騎士を上回る功績を上げたのだ。一体誰がそれをに異議を唱える事が出来るだろうか?
「さて……後はこの場から首尾良く逃げ出すだけだな」
 一時の興奮から理性を取り戻しながら男が呟く。どれ程の偉業も、それが完遂されなくては単なる茶番に過ぎない。
 幸いイシスの聖印はそれ程大きな荷物では無い。純銀と純金を組み合わせる事によって造られたそれは、それなりの重量を有してはいるものの、形としてはそれほどかさばる物ではなく、背負い袋に収めてしまえば殆ど邪魔にはならない。
 まぁ、この先で有り得る戦闘においては多少のマイナスになるかも知れないが、それとて致命的と呼ぶ程では無いだろう。
 侵入した時と同じく、いやそれ以上に慎重な動きで、男は神殿展示室を後にする。ここ数日の観察によって館内の警備体勢の殆どに熟知している自信はあるが、何事にも緊急事態という物が存在する。その為に慎重に振る舞う必要性を、この男は良く知っていた。
 侵入に使った入り口とは敢えて反対の方向に逃走路を定め、巡回の衛士に出会う事の無いよう慎重に足を進める。暑いワケでもないのに喉はからからに渇き、額にはうっすらと汗が滲んでくる。過度とも言える緊張の余り、神経が極限まで砥ぎ澄まされたようだ。
「………!」
 慎重に進んでいた男の足が止まる。前方から何者かが近づいてくる足音が聞こえていた。この場所で味方に出会う可能性など有り得ない以上、それは間違いなく敵の足音だ。
 何をどうするか考えよりも早く身体が反応し、手近な柱の影へと身を潜める。
(どうする?)
 男は素早く自問した。巡回の衛士が来る時間としてはやや早い。予定では、館内の衛士控え室を通り過ぎるまで、衛士の巡回時間とはかち合わない筈だった。だが現実がその予定を否定している。おそらく、不定期に巡回時間を変更させる事によって不埒な侵入者を防ごうという考えなのだろう。流石は至高神のお膝元と言うべきか。弛んでいるように見えていても、やるべきことはやっている。
(戦うべきか? それとも、避けるべきか……?)
 このまま先へ進ませれば、予定よりも遥かに早い段階でイシスの聖印が強奪された事が発覚してしまう。
 では、やはり戦うべきか? いや、それもマズイ。自分の腕前には相応の自信を持っているものの、何事も完璧は有り得ない。一撃で決着が付かなかった場合、当然ながらその騒ぎを聞きつけた他の衛士達が集まってくるだろう。残念な事に、相手を確実に一撃で葬り去るだけの自信は持てない。
(ここは見逃すべきだな)
 男はそう結論した。見逃した場合確実に強奪は露見するが、少なくとも露見するまでは時間を稼ぐことも出来る。いらぬ戦闘によってリスクを背負うよりは少しでも確実な手段を選ぶべきだろう。
 そんな彼の心境を知ってか知らずにか、殊更嫌味に思えるほどゆっくりと足音が響く。
(くそっ! 早く行っちまえ!)
 まさか実際に叫ぶわけにも行かず、男は心の中で悪態を付く。それが錯覚だと承知してはいても、その遅さには、叫びだしてしまいたい程の苛立ちを感じる。
 やがて足音は誰の耳にも確かな程に鮮明な物になり、しばらく後には遠ざかり始めた。至高神のお膝元下にある神殿への侵入者などあまり真面目に可能性として考えた事もないのか、衛士はこちらの気配に気付かずに通り過ぎていった。油断というより、それが当然の反応だと言える。
「……ふぅ」
 衛士の足音が充分遠くへ行ったと判断してから、男はゆっくりとため息を漏らした。
「まったく……この調子じゃぁ、先に神経が参っちまうぜ……」
 こんな見も心もズタズタになりそうな事を、平気でやってのける“泥棒”という人種を少しは見直して良いかもしれない。そんな取り止めもない思考が脳裏を過る。それが正しいかどうかは別にしても、奴等がそれだけの精神的耐久力を持っているという事実だけは確かだ。こんな事を好き好んでやろうというのだから、一級の精神力の持ち主である事だけは間違い無い。
 脳裏に浮かんだ馬鹿な考えを振り払い、男はやや急ぎ足に行動を再開した。あの衛士を黙って通した以上、事件が発覚する事はもはや時間の問題だ。少しでも距離を稼ぎ、出来るだけ穏便にここから逃げ出すしかない。
 慎重に、それでいて着実に。気の遠くなるような長い時間が経過し、男はようやく脱出路である地下水路の入り口へとたどり着いた。
「……これからは泥ネズミの真似事だな」
 地下水路と言えば聞こえは良いが、何のことはない。生活排水を処理している単なる下水道の事だ。どんなにご大層な名前を付けた所で、現実が変化するわけでもなかろうに。
 一時が万事、この調子で形式ぶる事の好きな至高神とその徒党どもの見栄張りと来たら……。
 狭い鉄格子を慎重に外し、ゆっくりと身を滑り込ませる。賊の脱出路としてのここの存在は、すぐに露見するだろう。だが、それを敢えて看過するだけの価値はある。この地下水路を辿れば、理想的な最短距離でこの糞ったれな街の外へと脱出する事が出来るのだ。無数の繋がりによって半ば迷路と化しているこの通路を全て探索する事など不可能に近いだろうし、数あまたある出口の全てを監視する事などもまた不可能だ。それに、こっちには連中の意表を付く行動案が残されているのだから。
 男がその身を地下水路と滑り込ませると同時に、にわかに館内が殺気じみた喧騒に包み込まれ始めた。ようやく自分達の守るべき宝物の紛失に気付いたらしい。
「遅いな……今頃になったんじゃな」
 いくぶん同情的な口調で男が言葉を漏らす。人間なら誰しも、いや神でさえも予測するのは難しかったであろう事態によって、ここの警備関係者は罰せられる事になるのだから。多分、ここの警備責任者は重罪を免れないだろう。事が事だけに、“死”を給う運命から逃れる術はあるまい。待ち受ける運命は、名誉ある“自決”かそれとも不名誉極まる“処刑”かの二者択一であるに過ぎない。
「さて、あまり人の事ばかりを気にかけている場合では無いな」
 自分の立場は、ここの警備責任者よりもまだ悪い。見つかれば即斬り捨てられるだろうし、仮に命あったまま捕らえれても最終的に処刑は免れない。つまりどちらに転んでも“死”だけが待っている。見知らぬ他人よりも、我が身を顧みる方が重要だ。
「さぁて……それでは、次の行動に移るとするか……」
 軽口を残し、男の姿は薄暗い地下通路の奥へと消え去った。