合わせ鏡の少女
第一章
古い想い出と気の合う友人。
そんな理想的雰囲気に囲まれて神殿の勤めを果たしていたカロンは、ある日古い記憶を呼び覚ます少女と出会う。
それは、それから始まるてんやわんやな日々の幕開けであると同時に、また一つの陰謀の始まりでもあった……。
古い思い出と組織の陰謀……その二つが交叉する中、カロンは否応なく現実へと直面する事となる。
「失敗……だと?」
長テーブルの上座に着席している初老の神政官がゆっくりと口を開いた。
「たかだか神聖秘書官一人相手に、一体どのような失態を見せたと言うのかね?」
「それが……」
計画のそもそもの発案者である女性の神政官は、恐縮しきった表情で答えた。
「フレイア秘書官を拉致する為に派遣されたメンバー全員が、返り討ちにあってしまいました。無事に戻って来た者は、一人もおりません……」
女神政官の言葉に、若い男の神政官は不快な驚きの表情を浮かべた。
「派遣されたのは、神聖衛士から特に選ばれた優秀な者達だ。それが目的を果たさぬ所か二日足らずで全滅してしまうなんて、有り得ぬ」
「ですが、事実全滅してしまったのです。フェーンバード市に派遣した四名は、ただの一人も生還しませんでした。発見された死体は全て身元不明の盗賊として処理しましたが、早急に次の手を考える必要があります」
違う神政官が女神政官に尋ねた。
「それで、その四名を返り討ちにした者の目星は付いているのかね? あの者達を処分してしまう程の腕前の持ち主だ。このまま放っておくと、この先どのような害になるやも知れぬ」
「それが……」
尋ねられた女神政官は歯切れの悪い言葉で続けた。
「それが、我々の計画を台無しにしたのはオーフィリア・コナリーという名の一等審問官であるらしいのです」
「審問官?」
初老の神政官がオウム返しに尋ねる。
「馬鹿な、ファインアート神殿の審問官席は未だ空席の筈だ……審問本部が無断で後任者を決定したとでも言うのか?」
隠しきれない苛立ちが言葉に秘められていることに、室内の全員が気付いた。最高法院とはあらゆる神政を司る最高決定機関である。その決定が守られないとなると、神殿組織の秩序は根底から瓦解しかねない。
「ところが、そうでも無いのです」
女神政官が続けて発言する。
「即急に審問本部に問い合わせてみた所、誰に対しても後任人事は発令されていないとのこと……少なくとも審問本部の独断ではありません」
神殿組織の情報全般を担当している若い神政官が、更に補足の発言を行う。
「オーフィリア・コナリーという名の審問官についても興味深い事実があります。審問本部での資料によると、彼女はサルマニア王国内での活動中に消息不明となっており、死亡した物と判断されています。とてもこの時期にファインアート市に訪れる状況ではありません」
「では、ファインアート市のオーフィリアが偽者だと?」
「確証はありませんが、その可能性は極めて高いと思われます」
「解っていることは、たったそれだけかね?」
若い男神政官の言葉に、初老の神政官は遂に怒りを爆発させた。
「可能性の問題など聞いてはおらぬ! 早急に確固たる事実を究明したまえ! 無能者どもに与えるポストは、この場所には無いのだからな!」
初老の神政官の怒声に、室内の全員が慌てて腰を上げる。目前の人物は決して独裁者では無かったが、それでも民主的な手段を踏まずして気に入らぬ者を追放するだけの権力を持っている。怒らせたままにするのは、保身の上からも望ましくは無い。
「失礼します」
騒然とした室内に、一人の神聖衛士が入室して封書を初老の神政官に手渡す。老神政官は憤懣やりきれないと言った表情で封書を受け取ったが、中身を一読するや否やたちまち顔色を失ってしまった。
「……計画は全て放棄する」
室内からぞろぞろと出掛けていた神政官達に、初老の神政官は疲れ切った声で告げた。
「カロン神官長に対する全ての計画を白紙にし、彼の者の行動にここ当分何の制中を加える事も許さぬ。以上を持って当神政会議の結論とする」
「それは、一体……!?」
全ての努力を無にする一言に、室内の全員が驚愕の表情を浮かべて発言者の方を振り返る。
当の発言者である初老の神政官は、額に深いしわを刻み込んだ苦渋の表情を浮かべながら手にしていた封書をテーブルの上に投げ出す。
「………!」
その封書に記された印象を見て、室内全員が言葉を失う。見間違い用もない。左右の調和バランスを重視された天秤型の印象、それは彼らが直接信仰する神性の物では無かったが、特に関係の深い神性の印象だったからだ。そしてその印象には聖職者である以上、絶対に逆らう事は出来ない。
これで解っただろうと言いたげな表情で初老の神政官が居並ぶ面々を見回す。それ以上誰も反論の言葉を口にはしなかった。
「こんな神殿に押し入ってくる盗賊なんか居る筈もないじゃないか」
全く納得行かない表情でフェーンはぼやいた。
「タイミングも申し分無い。奴等、絶対に君を狙っていたに違いないね」
「まさか……」
曖昧な微笑みを浮かべながら僕は答えた。
「僕はそんなに大物じゃないよ……考え過ぎじゃないかい」
自分でも思っていない事を人に納得させるのは、非常に難しい。案の定、フェーンは僕の言葉に納得しようとはしなかった。
「考え過ぎも何も……このタイミングといい、あの審問官の不可解な挙動といい、全てが偶然の域を遥かに越えている。もしこれが偶然の成せる技だとすれば、この世界の因果律は余程特殊な構造をしているに違いないね」
「全く、フェーンの言うとおりじゃない」
困った事にフレイアまでがフェーンに同調する。
「あの審問官がロクな理由も告げずに突然部屋を変えてくれなんて迫って来て、しかもその当日に事が起こるなんて……これが偶然なんて、誰が信用するものですか」
フェーンやフレイアの言うことももっともだ。アレを偶然の結果として片付けるにはいくらなんでも無理がある。しかも更に頭が痛い問題は、あの日以来肝心のオーフィリアが姿を現わさないという事だった。審問官が数日に渡って神殿をあけるのは珍しい事では無いが、幾らなんでもタイミングが悪すぎる。これではわざわざ噂を立てて下さいと言っているようなものだ。
低いノックの音がした。それを耳にしたフレイアがゆっくりとドアを開く。そこには困惑した表情のティーンが立っていた。
「どうしたんだい、ティーン君」
向こうから口を開く気配が無かったので、僕の方から尋ねた。彼の表情から考えてとても吉報だとは思えないが、だからと言って聞かない訳にもゆかない。
「それが……」
困惑を隠さない素直な表情と言葉で、ゆっくりとティーンは口を開いた。
「正式な任命書を持った審問官殿が来られています……話では、それより以前に新任人事を発表した事は無いそうで……」
「カロン……」
何か言いかけたフェーンを、僕は目で制した。
「では、その審問官殿に着任して貰おう……悪いけどフェーン、これは君に任せるよ」
「あぁ……」
些か気勢を削がれたような表情でフェーンが頷く。僕は簡単に身を整えると、席から立ち上がった。
「じゃぁ、あの審問官殿は……?」
「悪いけど、彼女の件は僕に任せて貰えないかな……神殿に迷惑はかけないから」
僕の懇願に近い言葉に、フェーンは軽く頷いた。
「………」
どうやら、いつの間にか神殿の敷地内から出たらしい。周囲の光景は神殿では無くファインアートの市街地に変化していた。
(一体、僕はどこへ行くつもりなんだ?)
頭の中を自問の言葉が過る。一体僕は何処へ、何の目的があって向かおうとしてしているのだろうか?
理性では無く感情の命じるまま、まるで導かれるかのように僕は自分でもはっきりと自覚しないまま歩いていた。理由の解らない焦燥感が僕を行動に駆り立てる。僕は行かなければならない。理由が解らず、その場所さえ知らなくても、それでも僕は行かなければならない。
「………」
やがて僕の脚が自然と動くのを止めた。場所は街外れの街道。何本かの並木が立っている以外にはこれといって目立つ特徴も無い。
だけど、この場所は僕にとっては聖域とも呼べる場所だった。始めてオデッセイと出会った場所。そしてあの風変わりな審問官の少女と出会った場所……。
「……随分と遅かったじゃないか」
突然声を掛けられ、僕は慌てて声の方向に視線を向けた。そこには足元に大きな鞄を置き、並木に背中を預け格好の少女、オーフィリアがいた。
「彼女から話を聞いた時は、もう少し勘が鋭いんじゃないかと思っていたけどね」
「……君は一体、何者なんだい?」
僕は静かに尋ねた。僕の言葉が途切れ、相手は口を閉ざしたまま。僅かな沈黙が周囲を支配する。
「キミは……もう解っていると思うけど」
やがてゆっくりとオーフィリアが口を開く。
「始めて名乗った時から、キミはボクが偽名を申告した事に気付いていた筈だ。キミ程の思考力さえあれば、ボクの正体を知るぐらい何でも無い事の筈だよ」
オーフィリアの言葉に、僕は出来るだけ慎重に言葉を選びながら答えた。
「君は主を……至高神を身内と呼んだ。僕の知る限り、至高神を係累として持つ神性は一人だけだ」
そこまで言ってから僕は口を閉ざす。自分のたどり着いた結論が、とても信じられない。いや、信じたく無いと言うべきか……。
「その通りだよ、カロン」
妙に抑揚の無い偏平な声でオーフィリアが答える。
「ボクの本当の名前はラル・シェード・ハーン……君達が調停神と呼ぶ神性だよ」
冷徹な事実、と呼んでいいのかも知れない。彼女の言葉にはそれだけの衝撃力がある。だけど、それでも僕は目前の会話が現実だとは思えなかった。
「調停神……だけど、君はオデッセイとは違う……」
「そりゃそうさ」
上擦った明るい笑い声でオーフィリア、いや調停神ラルが続ける。
「ボクは調停神で、あの子も調停神さ。ただ、司っている物が違うだけだよ」
そこで一度言葉を切る。何と説明したらいいのか考えているのかも知れない。
「調停神とは二つの顔を持つ神性なんだよ……神々の調停役としての姿と、違反者を裁く審判者としての姿をね……まぁ、キミ達で言う所の双子みたいなものさ」
「………」
「オデッセイは調停を司る神性……そしてボクが審判者。ちょうど鏡に写した姿を想像してくれたらいいかな。そこに写っているのはボクとは別の人物かも知れない。だけどそれは間違いなくボクの姿なんだ。鏡は物の姿を逆にするかも知れないけど、全然別の物を写したりはしない。それがボクとオデッセイの関係……」
「じゃぁ、君は何の為にこの場所へやって来たんだい? 君が僕を助けてくれた事は解るけど、それが君にとってどれ程のメリットになるというんだい?」
僕の質問に、ラルはふっと鼻で笑った。
「別に……大した目的なんか無いよ。ただ、ボクは自分の親の不始末の後片付けに来ただけさ……それに、多少興味があってね……もう一人のボクの心を引いたキミにね」
僅かに視線を逸らしながらそう答える。
「確かにあの子の気に入りそうなタイプだよ、キミは。手間の掛かる事この上ないけどね。でも、まぁ、あんな深刻ぶるのが好きな子には丁度良いか」
「それで、君はこれからどうするんだい?」
僕は尋ねた。答えを聞いたからと言ってどうなる物でも無い事は解っていたが、それでも尋ねずにはいられなかった。
「さぁてね……そろそろ本職が姿を現わす頃合いだろうしね。また、風来坊の旅にでも戻るよ」
寂しい笑顔でラルが答える。その表情に、僕は彼女が背負う大きな責任の一端を垣間見たような気がした。
「……このまま神殿に居てくれ無いかな?」
自然と言葉が滑り出す。目前にいる少女は、確かに大きな力を持った『神』かも知れない。だけど、彼女は普通の少女となんら変る事のないメンタリティを持っている。何もかも一人で背負い込むには、あまりにも彼女の背中は小さ過ぎる……。
「……何を言い出すかと思えば……」
僕の申し出に、ラルは目を丸くした。
「キミの言葉を借りるなら、それこそ何のメリットも無い行為だよ……だいたい、至高神の神殿に調停神が居座って、ロクな事になるワケが無い」
「だけど、神殿には僕の友人達がいる。君の背負う責任を分かち合う事は出来なくても、君の苦痛を分かち合う事は出来るよ。オデッセイもそうだったけど、何故君達は何もかも一人で背負い込もうとするんだい? 『導かれし者』に頼るのは、神々にとってそれ程までに屈辱的な事なのかい?」
僕の言葉に、ラルは今までとは違う笑みを浮かべた。
「なかなか知ったような事を言うじゃないか……だけど、それは些か自惚れが過ぎるという物だね。キミ達はボク達神々からは遥か遠い存在なんだからね」
そこまで言ってからそっぽを向く。
「だけど、個人的には礼を言うよ……母親にさえそんな言葉を掛けて貰った事はない」
右人差し指で鼻の頭を軽く掻いている仕草が妙に可愛い。もしかして、照れているのだろうか?
「さて、ボクはそろそろ行くよ」
足元の鞄に手を延ばしながらラルが言う。
「キミの提案は魅力的ではあるけど、あの子にいらぬやきもちを妬かせるのも悪いからね……この先も何かと面倒だろうけど、まぁ、精々頑張ってよ」
僕が返事に困っていると、少女は僅かに顔を近づけた。
「それとも、キミも一緒に来るかいカロン。キミは神殿と言う枠組みの中に収めておくには惜しい才能の持ち主だからね」
全く予想もしていない逆勧誘を受けてしまった。だが、まぁ、答えは決まっている。
「中々魅力的な提案だけど……」
出来るだけ相手に失礼では無い言葉を捜しながら、僕は慎重に答える。
「僕には果たすべき責任と守るべき義務がある。高く買ってくれるのは嬉しいけど、それらを放棄する事はできないよ」
「だろうね……キミならそう言うと思ってたよ」
僕の返事ぐらいとっくにお見通しだったらしく、ラルはそう答えた。
「人が人以上の何かにはなれないように、神もそれ以外の物になる事は出来ない……全く世の中とは不便な物だよ」
それじゃぁ、と小さく言ってからラルは荷物を担ぎあげた。そして数歩歩いてからふと後ろを振り返る。
「そうそう……最後に一つ助言しておいてあげるよ。もうすぐ大きな嵐が訪れる。その嵐に立ち向かうのも受け流すのもそれはキミの自由だ。本当は、この世界はキミ達の物でも無ければ、ボク達神々の物でもない。この世界に住む全ての者達の物だというのに、誰一人その事に目を向けようとしない……本当に嘆かわしい事さ」
それだけ言うと、ラルは今度こそ本当に歩きさって行った。引き止める言葉も掛ける言葉もなく、僕はその後ろ姿を無言で見送る。
「……また助けられたんだね……」
その後ろ姿が完全に見えなくなってから、僕はそっと呟いた。