合わせ鏡の少女
第一章
古い想い出と気の合う友人。
そんな理想的雰囲気に囲まれて神殿の勤めを果たしていたカロンは、ある日古い記憶を呼び覚ます少女と出会う。
それは、それから始まるてんやわんやな日々の幕開けであると同時に、また一つの陰謀の始まりでもあった……。
古い思い出と組織の陰謀……その二つが交叉する中、カロンは否応なく現実へと直面する事となる。
無意味に広い空間。天井は遥か高く、壁は中央の会議テーブルから遥か遠くにある。床も壁も完全に磨き上げられた大理石で造られ、名匠の作品である事が一目瞭然な数々の宗教的芸術絵画が飾られている。それは呆れるほどまでに豪華で、広大な室内であった。扉の表では純白の胸鎧を身に着け、長槍を構えた複数の神殿衛士が物々しい警備体勢を取っている。その事だけを見ても、この部屋がどれ程重要な場所なのか容易に想像出来るだろう。
その室内の中央を占めている長テーブルで、至高神の聖衣を身につけた十人ほどの神政官達が囁きに近い会話を交わしていた。
「カロン神官長……彼の者は非常に危険だ」
十人の中で一番若い神政官が発言する。
「大いなる至高神様に仕える神官の身でありながら、あの恥ずべき調停神に肩を持つような発言が多い。彼の者が、いずれ大いなる災いの種になるのは間違い無い」
その言葉を受けて、別の神政官が口を開いた。
「だが、不肖の存在とは言えども、調停神は一応我らが主に通じる一族だ。我が神殿組織が『自由』と『平等』を標榜している以上、彼の者の行動を制中する事は出来ん」
自信満々といった様子の二人に対して、やや年配の神政官が自分の危惧を披露する。
「もしそんな事を強行すれば神殿の権威は低下し、それはそのまま我が主の権威の低下につながる。カロン神官長とやらが危険因子である事は解るが、直接的な行動に及ぶのは余り得策とは思えん」
その言葉に、最初の発言者が鋭い視線を向ける。
「成る程、確かにそれは貴公の言うとおりかも知れない」
そこまで言ってから、発言者は殊更ゆっくりと言葉を続けた。
「では、我らが主の怒りが爆発するまで彼の者を放置しておくのですか? 貴公はそれに耐えられるのですか? 後に自分達が無為無策な存在だったと評価されても構わないと言うのですか?」
「………」
立て続けに繰り出される言葉に、年配の発言者は押し黙った。言葉の内容こそ極端ではあったが、それは同時に一面の真実を突いていたからだ。神政官、それも最高法院に属する者達にとって権威の失墜は自らの存在価値の消失を意味する。至高神に関するあらゆる神殿組織を統括している最高法院に取って権威とは、何を犠牲にしても守り抜かなくてはならぬ存在なのだ。それが出来ぬとあらば自分達に存在すべき理由は無い。神政官にとって無能者のレッテルは、死に勝る屈辱なのだ。
「無能者と誹られるのが恐くないと言うのであらば、そもそも我らがこの場所でこのような話題に協議する必要も無かった筈。ですが実際には……」
「不毛な会話はその辺までにしておくのだ」
一同の代表とおぼしき最年長の神政官が重々しく口を開く。実際には外見以上の年齢を経ている老人なのだが、僅かだが至高神の血を引いている為に若く見える。
「我々がこの場所に集まったのはいつとも知れぬ未来の事を協議する為ではない。近々訪れるであろう確実な未来への対策を協議する為だ。つまらぬ論議に時間を裂く暇があるのならば、協議の本題へ戻りたまえ」
威厳、と呼ぶに相応しい貫禄に室内でのざわめき全てが収まる。この室内にいる者の中に、この威厳を無視出来る者など存在しない。
「我らが主は慈愛に満ちた方であり、同時に寛大な方でもある。だが、無益な行為で無為に時間を過ごすことに対しては非常に厳しい方だ。その事を常に念頭に置いておく事を忘れぬようにな」
短い沈黙の後、先程の発言者である若い神政官が再び口を開いた。
「今重要な事は、彼の者が何をするかでは無く、彼の者に大して我々が何を出来るかでしょう。彼の者が何か行動を起こすのを待つのか、それとも彼の者が何もせぬ様に制中するのか。それによって決めるべき事も決まると思いますが」
「静観を決め込む事は出来ん……だからと言って罪も無く直接的な行動に訴えるような事はもっと出来ぬがな」
発言に初老の神政官が答える。
「我々としては神殿の教義に背かぬ範囲で、彼の者に対する行動を決定せねばならぬ。排除するにせよ従わせるにせよ、まだいくばかの時間が必要であろう」
「では当面の間、彼の者に監視を付けておく事にしましょう。どのような結論が得られるにせよ、それは無駄では無いと信じますが?」
年配の神政官が提案する。その妥当な提案に、室内にいる全員が重々しく頷いた。
「丁度かの神殿は審問官に欠員が発生し、しかも未だ後任者が定まっていない……我が主に大して絶対なる忠誠を誓っている者から、適任者を選びだして派遣する事が最良だと思われる。もっとも、人選だけで十日以上は必要だろうが……」
「しかし、ただ監視しているだけでは意味がありません。誰か彼の者に近い人物を利用して警告を与えるべきでしょう。我々とで無慈悲ではないのですから」
それまで沈黙を保っていた女性の神政官が発言する。
「その上で、もし彼の者が我らの主の意向にそぐわぬ行動に及ぶ場合には……」
そこで言葉を切り、冷たい仕草で自分の指先を喉元で軽く横に振る。その行為だけで彼女の言わんとする内容は全員が理解出来た。
「ことは慎重に行う必要がある。あの調停神に気付かれては全てが水泡に帰してしまうだろう。いかなる神々の介入をも受けぬ内に処理するのだ。我らが主もこの種の行動は好まぬ故に、出来れば最後まで伏せて置く必要があるだろう」
この言葉を最後に会議は終了し、全員が席を立った。自分達に従順とは言えぬ神官に懲罰を与える為に、それぞれが自分の責任部署へと戻って行く。
たとえどれ程高名な者であっても、権力に逆らう者の末路は決まっていた。
この部屋にいる全員が、それを可能とするだけの政治的力を有している。故に人々は彼等を『権力者』と呼ぶのだ。
頭痛の種は、うずくよりも早く爆発してしまった。
「……誠に申し訳ないのですが、神官長様……」
オーフィリアと名乗る少女審問官が赴任して一週間後。早くも僕の執務席に彼女には対する苦情陳情が山積みになっていた。
「あの方に何とか言って貰えませんか? 幾ら審問官とは言え、敷地内でやたら剣を振り回すのは感心出来ません。それにあの方の執務室の壁は、投げられた短剣が何本も突き刺さっているんです。この神殿の清掃維持をしてくれている神殿ボランティアの方々がすっかり脅えてしまっているんですよ」
「………」
ため息を付きたいが、それだけでは何事も解決しない。彼女の奇行(そこまで言い切るのは些か失礼だろうけど)には、わざわざ報告されるまでも無く気付いていた。
やたらと参拝者に馴れ馴れしい。
言葉遣いが粗雑で、しかも遠慮無い。
木陰や柱陰の掃除が気に入らないと文句を言う。
執務室に殆ど姿を見せず、しかも神殿内に不在の事が多い。
確かに異端審問官の仕事は主に仇なす者を武力で持って討伐する事であり、神殿内での仕事は大して多いわけじゃない。武力を用いる事が任務である以上、日々の鍛錬は欠かせないだろうし、それはまた彼女の義務でもある。
だがそれらの事情を踏まえてもなお、彼女の行動は常軌を逸していると言わざるを得なかった。ただでさえ神殿内には審問官に対して穏やかならぬ感情を持つ者が多いと言うのに、彼女は更に悪名を高めているように思える。
「……わかりました。審問官殿には私の方から伝えておきましょう」
一時間近く苦情の言葉を聞かされ、ようやく僕は相手を納得させて下がらせた。軽い頭痛がする。彼女の着任を僕の名前で認めた以上、最終的な責任は僕が負わなくてはならない。そうである以上、苦情の類を無視するわけにはゆかなかった。
「……なかなか苦労しているようだね、カロン」
意地悪な笑みを浮かべながらフェーンが茶化すように言う。
「しかしまぁ、台風の目を呼び込んだのは君だ。諦めて精々頑張ってくれたまえ」
「なに言ってるのよ」
腰に軽く両手を当て格好でフレイアがフェーンを軽く睨みつける。
「この神殿の責任者は、そもそも貴方でしょフェーン。少しはカロンの苦労を分かち合う気にはならないの」
「とは言え、彼女の着任は正式な書類も無くカロン個人の名前で行われたからね。僕には責任の取りようがないな」
やや薄情ではあったが、フェーンの言葉は間違っていない。正式な書類があれば彼女の着任と責任は神殿責任者、即ちフェーンの管轄となる。だが正式な書類は無くその着任が僕の名前で行われたとあっては彼に負うべき責任は発生しない。
「だいたい、貴方も威厳というものをもっとしっかりと見せるべきよカロン。あまり甘い顔をしているから付け上がるのよ!」
フレイアの舌鋒の矛先が僕の方に向けられる。オーフィリアが着任していらい妙に彼女の機嫌が悪いような気がするのは何故だろう。
「例え所属が違っても、貴女はあの審問官よりも高位なのよ。一度はピシッと言ってやらないと!」
余程興奮しているのか、フレイアは自分が二等神官である事も忘れている。この場合相手の方が彼女より高位なのだから、呼び捨てにするのはあまり宜しくない。
「でも、彼女は悪い人じゃないよ」
やんわりと僕はフレイアをたしなめた。
「確かに多少変わった点がある事は認めるけどね。だけど彼女は決して他人を傷つけない。街の子供達には慕われているし、下級神官の大半も彼女を認めているよ。この事実は彼女だけでなく、この神殿にとっても重要な財産だと思うけどね」
任務が持つ性質上、一般人はあまり審問官を好まない。常に人を疑うような目つきで眺め、些細な事から相手を異端者として糾弾する。特に前任者のロッホ審問官は神職者としての見識も能力も申し分ない人物であったが自分の任務に極めて忠実であり過ぎ、幾度と無く街の住人と摩擦を引き起こしている。当然ながら階級にもうるさい人物であり、神殿内でさえも不評を買っていた。
それに対してオーフィリアは、審問官としては非常に異色な人物であった。自分よりも地位が低い相手でも気さくに会話を交わすし、神殿に訪れる子供達にも優しい。言葉を飾らず率直に話す点には非常に好感が持てるし、何といっても尊大な態度を微塵も見せない。彼女の行動がとかく無責任なのは確かであったけど、少なくとも彼女は嫌われてはいなかった。僕の元に寄せられる苦情にしても「奇行癖をもう少し何とかして欲しい」という者が大半であり、「彼女を交代させて欲しい」という者は皆無であった。
ロッホ審問官の頃は苦情など皆無であったが、これは要するにその後の仕返しが恐いからであり、決して前任者が人格者であったからでは無い。少なくとも彼女は不要な仕返しをするような人間とは思われていないわけであり、これは非常に歓迎出来る事実だ。
もっとも、だからと言って僕の心労が軽減されるわけではないのだけど。
「そりゃぁ……確かにあの人は悪い人じゃないわよ」
不承不承といった様子でフレイアが答える。
「だけど、ちょっと常識外れなんじゃないかしら……あれじゃぁ神殿の秩序が保てないわ」
フレイアの言葉に僕が何か答えようとした時、不意に執務室の扉が開かれた。
「……常識外れで悪かったね」
入って来たのはオーフィリアだった。
「だけど神殿の秩序なんて、大して意味のあるものじゃないさ。キミももう少し気軽な物の考え方を覚えたらどうだい?」
左手に持った紙束をひらひらさせながら、殊更くだけた態度で言う。その明かに人をくっている態度に、フレイアは不機嫌さを隠そうともせずに口を開いた。
「審問官殿! 神官執務室に用件がある場合は、まず秘書官である私に伝えてくださらないと困ります」
「そんな事言っても、キミはいつもここに居るから事前に連絡の取りようなんか無いじゃないか」
フレイアの常識論に、オーフィリアは現実論で答える。
「そ……それならそれで、せめてドアをノックするぐらいの礼儀は保って下さい。ここは仲良しクラブではありません」
流石に言い返す言葉を持たないのか、しどろもどろな口調でフレイアが言う。本人も気付いているだろうけど、その言葉に説得力などまるで無い。
「まさか、キミの口からそんな言葉を聞けるとは思わなかったよ」
やれやれとでも言いたげな口調で、オーフィリアは軽く肩をすくめた。
「この執務室を仲良しクラブにしているのは、他ならぬキミの方だと思うんだけどね」
そこで不意に視線を厳しい物に変える。
「フイレア秘書官殿、キミがカロンと仲良い事に水を差すつもりは無いけどね、人の事を言う暇があるならば、まず我が身を顧みたらどうだい」
「………」
室内を重苦しい沈黙が支配する。オーフィリアの指摘は全くの事実であり、誰も文句を付ける事は出来ない。フレイアの肩を持つ事は簡単だったけど、少なくとも肩書きを持つ者が取るべき行為ではない。
「……私、失礼します」
長い沈黙の後、消え入るような小声でフレイアが言い、止める間も無く室内を後にする。その様子を見てオーフィリアは軽く舌を見せた。
「ありゃ……少し苛めすぎたかな?」
そんな事を言いながらもまるで反省していない態度で、今度は僕の方に話しかけて来た。
「まぁ、いいや……そんな事よりキミに手紙だよ、カロン。秘書官殿が気付いていなかったようだったから、代わりにボクが持って来たよ」
「有り難う……」
やや戸惑いながら僕は手紙を受け取る。肉親など既にこの世界に存在しない僕宛の手紙など、非常に珍しい。
「それじゃ、ボクは用事があるからこの辺で失礼するよ」
自分の用事を済ませると、オーフィリアは返事も待たずに執務室から出ていった。
「……何というか、型破りな人物である事は確かだな。まぁ、君の言うとおり悪い人物では無さそうだが」
前任者のロッホ審問官と度重なる摩擦を経験して来たフェーンが言う。彼に取ってはオーフィリアが変わり者である事よりも、彼女が摩擦を引き起こさない事の方が余程重要な事であるらしかった。まぁ、その気持ちは充分に理解出来るけど。
「……だけど、彼女は隠し事をしている」
ぽつりと僕の口から言葉が漏れる。
「ん? 何か言ったかい?」
僕の呟きを聞き咎めたのか、フェーンが僕に尋ね返す。
「いや、別に何でも無いよ」
慌てて僕は胡麻化した。自分でも良く解らない事を呟いてしまった。
「多分、僕の考えすぎだよ……」
答えながら僕は手紙の封を切ろうとペーパーナイフに手を延ばした。
「………?」
封を切るべくナイフを当ててから、僕はふと不審な点に気がついた。封の糊跡がずれているような気がする。誰かが一度開封した後に再び封をしたような感じだ。
「まさかね……」
神殿内で手紙が検閲される筈もないし、第一僕宛の手紙を覗き見て面白いとも思えない。
中に入っていたのは、取り立て何という手紙では無い。全国神殿向けの一般的な月間予定の告知だった。
「……何だろ、これ?」
少なくとも僕個人の名義で送り付けてくるような手紙では無いと思う。
数時間後、並木の下で眉間にナイフの付き刺さった黒装束の死体を発見し、巡回の神官が腰を抜かす事になる。