合わせ鏡の少女
第一章
古い想い出と気の合う友人。
そんな理想的雰囲気に囲まれて神殿の勤めを果たしていたカロンは、ある日古い記憶を呼び覚ます少女と出会う。
それは、それから始まるてんやわんやな日々の幕開けであると同時に、また一つの陰謀の始まりでもあった……。
古い思い出と組織の陰謀……その二つが交叉する中、カロンは否応なく現実へと直面する事となる。
「昨日はまた、例の場所に行ってたのかい?」
神殿執務室に入るや否や、いつもの皮肉めいた口調でフェーンが言う。
「あぁ……ちょっとね」
フェーンの言葉を軽く交わして、僕は自分の机についた。たった一日の間に未決済の書類が山のようにたまっている。やれやれ、僕が神官になってからに限定してもこの神殿組織という所は、随分と官僚化の波が進んでしまったようだ。まぁ、官僚化の全てが悪い事じゃない。書類のあった方が手軽にすむ問題というのも存在するし、書類化によって一部作業の効率があがるのも確かだ。書類の全てを否定するのは決して誉められた事では無い。
とは言え、この書類の多さに些か辟易しているのも確かだ。何だか神官長の重責を背負ってから、書類の決済ばかりやっているような気がする。まぁ、楽で良いと言えば楽て良いのだが、何だか本来の役目とは随分違う事をしているような気がする。
「まぁ、この職場は、些か君にはストレスが多いだろうかね」
向い側の机で神殿長の仕事をこなしていたフェーンが悪戯っぽく笑う。
「だけど仕方ないね。何しろこの神殿にいる高級神官どもと言えば、君も知っての通りあの政争ばかりにかまけている連中ばかりだ」
そう言いながら、フェーンは机の珈琲カップを取り上げる。
「揚げ句の果てには、お互いの足を引っ張りあって自滅。結局政治的に一番白かった君が神官長として選出されたワケだ。彼等の愚劣さは失笑のネタにもならないが、突然重責を背負わされた君の境遇には同情するよ」
「よしてくれよ……それでなくとも不似合いな自分の境遇に辟易してるんだから」
カロンは自分のカップに手を延ばした。残念ながらと言うよりは、当然ながらカップの中は空っぽだ。
「……なにを言ってるの」
右手首に神殿秘書官である事を意味している緑色のブレスレトをはめたフレイアが、豊潤な香りの漂うポットを運んで来ながらゆっくりと口を開いた。
「あの自滅騒ぎで先任順位が変化したのは事実だけど、貴方にはそれだけの力量があるんじゃないの。もっと自信を持ちなさいよね、カロン」
神殿執務室には今の所僕達しかいない。そのせいかフレイアの口調も私生活でのそれだ。他に人がいればフレイアもそれなりの態度を見せるのだが、司祭長は欠員(事実上フェーンが統括している)だし、女官長は最高法院のあるヴァリア・ポリスに出掛けて不在。こんな状況下では多少の公私混同があっても仕方はないだろう。
「自信、ね……それが自惚れに繋がら無ければ良いのだけどね」
「自惚れ? なに言ってるの、貴方みたいに自意識不足な人が自惚れたり出来るモンですか」
空のカップに煎れたての香茶を注ぎながらフレイアが言う。
「将来の自惚れを心配する前に、もっと自分に自信を持ちなさいな、カロン。貴方にその資格が無いのならば、決して下級神官達は貴方に従ったりはしないのだから」
「期待を裏切らぬよう、精々努力するよ」
そう僕が答えたとき、不意に部屋の外から呼び鈴の音が聞こえて来た。
「あら、どうしたのかしら?」
「悪いけど、フレイア。ちょっと見て来てくれないかな」
フレイアにフェーンが言う。その言葉にフレイアは軽く頷いてから、部屋から出ていった。
「……あまり良く無い話があるんだけどね」
フレイアが部屋から出るのを確認してから、フェーンは徐に口を開いた。
「先日、我らが主のお気に入りの戦乙女が一人、ある男に倒されたらしい」
「それは……何と言うか、えらく大したものだね」
戦乙女と言えば、主である至高神が世界に誇る最強の誉れ高き戦士達である。ライバルである竜騎士達から至高神の威光を守るのが役目であり、人間はおろか竜騎士でさえ彼女達を打ち破る事は容易では無い。その戦乙女を倒すとは、一体どれ程の力を持った者なのだろうか?
「あぁ……我が主は大層御立腹らしく、最高評議会は主の逆鱗に触れぬよう努力するだけで苦心惨澹たる状況らしい。全く馬鹿な話さ」
「それで、何が悪い話なんだい?」
確かに戦乙女が失われたというのはショッキングな内容い違いない。だが、それは僕のような一等神官には何の関係も無い話である。一体、フェーンは何を……。
「……では、その男が調停神の関係者らしいと言ったら?」
僕の疑問に、フェーンは直接的な言葉で答えた。
「………」
「今まで君が調停神について幾つかの論文を発表しても、それはただ無視されるだけで済んでいた。だが、これからは違う」
言葉を失っている僕に、フェーンがまるで言い聞かせるように言う。
「悪い事は言わないから、暫くは自重するんだ。でないと僕ももう庇いきれなくなる」
重苦しい沈黙が部屋を包み込む。僕もフェーンも、お互いにこれ以上言うべき言葉を持っていなかった。
その沈黙を破ったのは、執務室に戻ってきたフレイアだった。
「……新任の方が尋ねて来ているわよ」
執務室に入ってくるなり、フレイアが言う。その言葉を聞いて、フェーンは表情をしかめて見せた。
「新任? おかしいな……ここ当分の間、予定に新任の赴任は含まれていなかったと思うんだが……」
フェーンの言葉に、フレイアも困ったような表情を浮かべる。
「とは言っても、本人がそう名乗っているんだから……まさか追い返す訳にもゆかないでしょう?」
確かにそれもそうだ。いくら予定に無いとは言え、尋ねて来た者を無下に追い返す訳にも行かない。取り敢えず話ぐらいは聞いておくべきだろう。
「いいよ、僕が行って話を聞いてくるよ」
書類を棚に戻しながら、僕は腰を上げた。
「フェーンはその溜っている仕事を片付けてたらいいよ。わざわざ君の手を煩わせる必要もないさ」
「……悪いな、カロン」
フェーンが謝るように言う。本来ならばこの手の対応はこの神殿の総責任者であるフェーンが行うべきだ。だが、彼は自分の仕事で手一杯の状況だ。であれば当然ながら、次席である僕が出向くのが当然の結論である。
「いいよ、別に気にしなくても。もし僕の手に負えなかったら、すぐに代わってもらうから」
僕の言葉にフェーンは、呆れたような苦笑いの表情を浮かべた。