第五章
「……貴方のお気に入りの神官は、結構出来るじゃないの」
心底面白そうに女性は目前の少女に話し掛けた。
「貴方の鑑定眼が少しも曇っていないのは、本当に喜ぶべき事ね。貴女はそう思わない、オデッセイ?」
「………」
オデッセイと呼ばれた少女は固く口を閉じたまま、一言も口を開かない。
そんな様子にやれやれといった仕草を見せながら、女性はテーブルの上の水晶球に布を被せた。
「貴方の強情は今に始まった事じゃないけど、もう少し素直な反応をみせたらどうかしら?」
「素直な反応……」
オデッセイが低く呟く。
「あれは一時の気の迷いよ……私は……」
「貴方があのカロンとか言う神官より、例の『混沌の戦士』に惹かれている事は知ってるわよ」
女性はオデッセイの肩に手をのせた。
「だけど、あの神官の事も忘れる事が出来ない……」
「シャルティ!」
女性の手を払いのけ、オデッセイは凄い形相でその顔を睨みつけた。
「一体、貴女は何が言いたいの? 何を望んでいるの?」
「別に何も望んでなんかいないわよ」
恐ろしいまでの剣幕を見せるオデッセイとは逆に、余裕の微笑みさえ浮かべたまま、シャルティと呼ばれた女性は答える。
「ただあまりに興味深い配役だったから、貴方に是非見てもらいたいと思っただけ」
「この世界で起こり、起こりうる全ての物語の語り部……」
憎しみさえ感じられる視線をオデッセイはシャルティに向ける。
「貴女があのエレーナとか言う娘に『転生の秘術』を授けたのは、まさかこの茶番を演出する為だったのかしら?」
オデッセイがシャルティを快く思わないのも仕方がない。何しろ今目前で微笑みを湛えている女性は、神々でさえその正体を知る事が出来ない。一説では天地創造の瞬間さえ眺めていたと言われる存在。この世界のあらゆる存在の誕生と運命を知る女性。どんな者であっても、そのような相手に好感など持てる筈がない。
「エレーナが母親の転生を望み、父親に命を奪われる悲劇を貴女は始めから知っていた。そして、呪われた場所をカロンが浄化してしまう事さえ知っていた筈よ」
その事情を考えれば、オデッセイの言葉が一々刺々しいのも無理はない。そんな些細な事に構う気など、シャルティは全く持ち合わせていなかった。
「……まぁ、知らなかったなんて言うつもりはないわ」
オデッセイの皮肉を、シャルティはさらりと受け流した。
「でも、こう思わない。たとえ結末の解っている物語でも読んでいる間は楽しめる物だとね」
「……貴女にとっては、人の命も感情も想いも全て娯楽なのね」
「そう取られるのは心外ね」
驚いたような表情でシャルティが答える。
「これでも、結構辛いのよ」
「でも私からそう言われる事さえ、貴女には既定の物語じゃないのかしら?」
皮肉と言うには余りに辛辣な内容の言葉をオデッセイは口にする。
「こんな場所で、こんな不毛な会話を交わす事も含めた全てがね」
この言葉には、流石のシャルティも苦笑じみた笑みを浮かべるしかなかった。何しろオデッセイの言っている事の殆どが事実である。オデッセイはシャルティの全てを知っている訳ではなかったが、何も知らない訳でもない。
「物語の語り部として、貴女は何もかも全てを知っている。そして、それをダシに人を笑い者にでもするつもりなの」
「そんなつもりじゃぁ、ないわよ」
シャルティは軽く肩をすくめた。自分が誰からもも嫌われる存在である事は良く知っていたし、それさえも自分の知っている物語の一部であると思えば今更悲観する気にもなれない。
「ただ、あの神官が気の毒なだけよ。どんなに強く想っていても、それだ相手に届かないのはとても辛い事よ」
何も答えずにオデッセイは立ち上がり、そのままドアの方に向かう。
「あら? もうお帰り?」
シャルティの言葉に僅かに肩を震わしたものの、結局何も答えずにオデッセイは部屋から外に出た。外は冷たい小雨がシトシトと降り注いでいた。
「カロン……」
寂しげに小さく呟く。
あの日々は一時的な気まぐれに過ぎない。待つことに疲れた心の気の迷いに過ぎない……筈。一時的な安らぎを求めた突発的な出来事だった……筈、なのに……。
「……カロン……」
もう一度同じ名前をオデッセイは小さく呟いた。
気まぐれだった筈なのに、涙が止まらないのは何故だろう?
気まぐれだった筈なのに、心が切ないのは何故だろう?
「カロン……」
出来る事ならば、もう一度逢いたいと思うのは何故なのだろう……。

『フレアガルド家:
いわゆるクラフトウエイト帝国六大候家の一つ。長きに渡って帝国の軍事面を支えてきた名家であるが、27代め当主ジークムンド・クロイッツエル・フレアガルド侯爵を最期に家が断絶してしまう。事故で娘を失い、また本人も不治の病に冒され死去。家督を次ぐべき者が皆無であった為、現在に至るまで断絶したままである。
なお娘のエレーナ・フレアガルド嬢は……』
この本の作者は、真実を知っている訳ではない。ただ表面的な事実だけを踏まえ、常識的な推測を付け足して判断しているだけだ。
「……知らない方がいい事なんて、余りにも有り触れた悲劇だな……」
虚構の方が幸せだという事は、悲劇なのだろうか? それとも喜劇なのだろうか? いや、そもそもこんな不毛な内容を平然と考えている僕の姿こそ滑稽なのかも知れない。
だけど、僕にしたところで一体どれほどの真実を知っていると言うのだろう? あの打ち寂れた廃墟の中で、どんな真実を見出したと言うのだろうか? 全てが夢じゃないと本当に言い切れるのだろうか?
嵐に巻き込まれ、疲れ果てた僕が見た幻ではないと言い切る事が本当に可能なのだろうか? あれは魔女の家で見たはかない夢ではないのだろうか?
「イステリア……」
あの廃墟で出会った少女は、確かにそう告げた。それが自分の真名であると。
「夢、なんかじゃ……ないよな」
僕に自分の名を託した少女が、夢の中のだけの存在なんかである筈がない。確かに僕は、あの場所で何かの真実に行き当たったのだ。
「……全ての物語の語り部……?」
いや、まだ完全な真実には行き着いてはいない。最期にエレーナ嬢が残した言葉の謎が残っている。
『全ての物語の語り部』。それがエレーナ嬢に『転生の秘術』を授けた誰かの名前である事は間違いない。だが、それが誰なのかは想像さえつかない。
「……オデッセイなら、知っているかな……?」
調停神の名を持つ少女。彼女なら何か知っているかもしれない。僅かな傷心と一緒にそう思う。オデッセイが僕の前から姿を消してしまった事自体は、自らの愚かさが招いた当然の結果だ。いくら悔やんだ所でどうにもならない。それよりも僕が残念に思うのは、もう二度と彼女と会う事はないだろうという事だった。
「……またいつか、貴方が私の事を遠い記憶の彼方に消し去ってしまった時に逢いましょうね」
最期に彼女はそう告げた。だけど、僕は彼女を忘れる事なんて絶対に出来ない。
どれだけ時の輪が回転しても、僕はあの少女を忘れたりはしない。
つまり、二度と会う事は出来ない。
「君の読書好きはよく知っていたが……」
フェーンの執務室(僕はフェーンの下に配置されている)で古びた書物のページをめくっていた手を休め、物思いにふけっていた僕の背後から急にフェーンが声を掛けてきた。
「まさか、帝国の政治にまで興味があるとは知らなかったよ」
僕の隣に腰をおろし、大きく背伸びする。
「まぁ……ちょっとね。それより司祭の定例会議は終わったのかい?」
「相変わらず異端審問官の悪口だけで終わってしまったよ」
彼らしいシニカルな口調で、フェーン僕の質問に答えた。それから、急に何か思い出したかのように言葉を続ける。
「そう言えば、今日なんでも新任の女神官が赴任してくるらしい。もうそろそろ着任してもいい頃だと思うけどね……」
「新任の女神官?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまったのも無理はない。僕やフェーンの担当している部署は資料部、要するに司書である。こんな部署に新任の配置があるなんて、非常に珍しい。第一女神官は祭儀部に配置されるのが一般的だ。
それに、こんな場末の部署では出世も覚束ない。僕みたいに出世に対する意欲が湧かない人間や、フェーンみたい(本人は酷く嫌がっているが)に出世を保証された人間ならいざ知らず、将来に夢を馳せる若き新任神官の配置先としては間違いなく最悪の場所だ。下世話に言ってしまえば、左遷されたに等しい人事だ。
「なんでも、本人の強い希望だそうだ」
物好きな奴がいたモンだ、とでも言いたげな口調でフェーンが言葉を続ける。
「この大神殿を希望するのはわかるが、まさか資料部を希望するなんて……」
フェーンの言葉が終わらないうちに、執務室の扉がノックされた。
「噂をすれば何とやら、だな」
あまりのグッドタイミングに苦笑さえ漏らしながら、フェーンは自分の席に戻った。新任着任の辞令を受け取らないといけないからだ。こういう形式は、実の所フェーンも僕もあまり好きではなかったが、取り敢えず遵守する必要がある。
それに神官貴族の出であるフェーンは、本人が嫌がっているわりには形式儀礼に秀でていた。僕も本を片付け、姿勢を正す。普段は親友でも、職責上はフェーンの部下だ。公私混同は避けないといけない。
「どうぞ。入りたまえ」
フェーンがそう言うと同時に扉が開き、やがて真新しい神官着に身を包んだ女性が静かに入って来た。
「………!」
長いプラチナブロンドの髪、右目を隠しているワンレンの前髪。僅かに憂いを湛えた左瞳と、寂しげな微笑みの口元。それは僕とフェーンが一番良く知っている女性だった。
「新しくこの神殿への配置を拝命した、フレイア・ジェルシード三等神官です」
フェーンの前に辞令を置きながら、新任の女神官フレイアが口を開く。
「これから、どうぞ宜しく御指導お願いします」
形式に沿った言葉を完全に口にしてから、ふと不安そうな表情でフレイアは言葉を続けた。
「お久しぶりね……カロン、フェーン。元気そうで何よりだわ……」
配置を申告した時とは打って変わって、今にも消え入りそうな弱々しい声だ。
「今更どんな顔して貴方達に会えばいいのか……随分悩んだけど……」
フレイアが、視線をそっと落とす。その行為の中に含まれた様々な感情のカクテルを、想像する事は出来ても理解する事は出来ないだろう。
「だけど……やっぱり私の戻るべき場所は、貴方達のもとしかないの……」
やや間を置いてから、意を決したようにフレイアが口を開いた。
「多くは望まない……だからせめて側に……」
「新任の女神官って……」
呆然と僕は呟く。フレイアの言葉は聞こえてこそいたものの、頭の中での理解には続かない。要するに、突然の予想外の出来事に、すっかり混乱していた。
「まさか……フレイア、君だったのか……」
僕が言葉に出来なかった部分をフェーンが引き継ぐ。彼とて僕と同じように混乱しているのだろうが、流石に立ち直りが早い。何と言うか、こういう緊急時への対応はやはりフェーンの方が遥かに慣れている。
「やっぱり、歓迎はされないみたいね……」
僕達の困惑を完全に誤解してるのか、寂しげな表情でフレイアは続ける。
「自分でも未練がましいとはわかっているわ……だけど、また昔みたいに三人で……」
「僕やカロンが、君を粗略に扱ったりするもんか」
同意を求めるように僕の方を見る。もちろん僕も同意見だったが、困った事にそれをうまく口に出来ず、ただ黙っているしか方法はなかった。
「もちろん、歓迎するよ!」
言葉に困っている僕の代わりに、笑顔でフェーンが言う。僕はなんと言って良いのかわからずに黙ったままだ。
何とも言えない感情と激情の狭間に、言葉はすっかり飲み込まれていた。
無言のままの僕を、フレイアが寂しげな瞳で見つめている。
「何か言えよ、カロン」
フェーンが僕にそっと耳打ちした。
「フレイアを待たせるのは、もうヤメにした方がいい」
「……あぁ……」
我に返った僕は呼吸を整え、ゆっくりと口を開く。言いたい事は色々あったが、ちゃんとした言葉にならない。それがなんとももどかしい。
「……お帰り、フレイア」
僕に言えた言葉は、結局これだけだった。

… Fin. …