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魔女の家で見た夢

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章



 出張をすませ、帰途につく最中に季節外れの暴風雨に祟られた新米神官カロン。
 ようやく見つけた雨宿り先で、彼は誤解と歪曲によって苦しみ続ける古く悲しい出来事に遭遇する。
 全ての不幸をゲームとする存在を相手に、カロンはその苦しみを救うべく行動を起す。
 果たして、その結末にあるものは?

第四章

 部屋の中は、朝僕が出てきた時と少しも変わっていなかった。僕が寝ていたベッド、きちんと整頓された本棚。埃一つない机。
 なにもかもそのままだ。
「………?」
 いや、違う点が一つあった。机の上に、一冊の本が置いてある。
「変だな?」
確かに朝には何もなかった。本どころか埃一つさえ落ちてはいなかった……筈だ。
「確かに何も無かったと思ったけどなぁ……?」
 首を傾げながら、僕はその本を手に取った。表紙を眺めた所、どうやら日記帳のようだ。
「日記……」
 一瞬のためらいの後に、僕は本のページを開いた。他人のプライベートを覗くようで何か後ろめたかったが、一つでも多くのヒントが欲しい今の状態ではやむを得ない。
「………」
 パラパラとページをめくって見ただけで、僕は軽く落胆のため息をついた。中身はインクが殆ど掠れており、まともに読む事はできなかったからだ。
 落胆を感じると同時に、どこかホッとした気持ちも感じる。必要だとは言え、やはり他人の日記を覗くのはあまりいい気分ではない。
 ただ、辛うじて『秘術』とか『儀式』といった単語が数ヶ所に書いてある事だけは確認できた。
「何か魔術的儀式を行った事だけは、間違いないみたいだな」
 確認出来た単語から推理して、ほぼ間違いない。問題は、その『儀式』の正体だ。単純に考えれば病気を癒す為の儀式だと思えるが、それが違う事はあのエレーナ嬢の口から聞いている。
 もっと何か、大袈裟な儀式だったに違いない。
「ある意味において母親を殺したのは事実、か……」
 何とも意味深長な言葉だ。母親を殺したのが事実なら、助けようとした事も事実。この完全に矛盾した命題を解決する方法……。
「病に苦しむ母親を見かねて、一思いに……」
 そこまで考えてから僕は首を振った。いくらなんでも、自分の母親を物理的に楽にしようなどと考える筈がない。よしんばそう思ったとしても、薬なり武器なりを用いれば済むことだ。わざわざ念入りな準備が必要な魔術儀式に頼る必要はない。
 結局、その魔術儀式の内容を知らなくては、何の答えも得ることは出来ない。
 軽い疲労を感じて、僕はベッドに腰掛けた。状況に対して、ヒントがあまりに漠然とし過ぎている。
 あてもなくさ迷わせていた僕の視線が、ふとある物に固定された。ベッドの反対側の壁に、何か見慣れた物が飾られている事に気がついたのだ。
 それは、見覚えのある形をした聖印だった。ベッドから立ち上がり、その聖印に近づく。
「これは……忘却の聖印?」
 忘却神ク・ユーム・ハーンの聖印。それが壁に掛けられていた物の正体だった。
「何故、こんな物が……?」
 この世界でもっとも信仰されているのは、間違いなく至高神イシス・ハーンである。同じ一族であるとは言え、忘却神を信仰の対象にしている者はいない。その名前が嫌われている為だが、司る『誕生』と『忘却』の力も信仰の対象としてはあまりに漠然としているからだ。
「まてよ……」
 忘却神が司るのは『誕生』と『忘却』……。古き物を忘却の彼方に押しやり、新しき物を誕生させる力……。
「まさか……」
 僕は一つの仮定に思い当たった。エレーナ嬢が母親を何とか助けようとしていた事は間違いない。つまり、『忘却』の力で母親を消し去ろうとした訳ではないだろう。
 だとすれば新しく母親を誕生させようとした事になるが、今の母親が生きている限りそれは不可能だ。そして候の話を信じる限り、エレーナ嬢と母親の中は良好だった。間違えても今の母親を消滅させようなどとは考えまい。
 だとすれば、導きだされる結論はただ一つ。
「『転生』の秘術……」
 僕は呆然と呟いた。病気の母親を救う為に、エレーナ嬢は母親を転生させようとしていたのだ。
 そう考えれば「ある意味において母親を殺したのも事実」という科白にも納得が行く。物質的な意味において、彼女は確かに自分の母親を一度死なせてしまったのだ。
 それを父親であるクロイッツエル候が理解せず、今度の悲劇が起きたのではないか。
「……いや、まだ答えが足りない……」
 僕は再びベッドに腰を降ろした。
 確かに今までの推理は筋道はちゃんと通っている。完全に正しいとまでは言わないけど、かなりの真実に違いない。
 だけど、これだけでは答えが足りないのも事実だ。
「『転生』の儀式には、転生した魂を受け取る器が必要だ……一体エレーナ嬢は、誰を器にするつもりだったんだ?」
 いかに神々と言えども、全く何もない所から一人の人間を作り出す事は出来ない。誰か他の肉体に魂を移し変えるのが精一杯だ。当然、魂を移し変える相手が必要だ。
 それは生きている肉体でなければならない。魔術的に創られたホルムンクスでも構わないし、赤の他人でも良い。ただし移し変えられた魂は、奇麗に消滅してしまう。その性質上、神殿では全面的に行使を禁止しているぐらいだ。
「ともかく、儀式が行われた場所を捜すのが先決だ」
 あのエレーナ嬢が、他人を犠牲にするような儀式を行ったとは思いたくないが、今の所、それを裏付ける証拠も否定する証拠もみつからない。
 今必要なのは、それら全てをはっきりさせる手がかりだ。そして儀式の行われた場所は、僕に少なからぬヒントを与えてくれるに違いない。
「……魔術的儀式を行うには、まず人気のない場所が一番好都合だ」
 特に候は魔術に対して理解がある人物ではない。妨害を避ける為にも、エレーナ嬢は出来るだけ人目に付きにくい場所を選んだだろう。
「……なんだ……ここでもいいじゃないか」
 内側から鍵さえ掛けてしまえば、この部屋は充分に密室になる。なお都合の良い事に、この部屋は居間や書斎と言った場所から充分に離れている。
 それによくよく考えてみれば、この部屋の構造は夢に出てきた部屋に酷似している。
「あとは、儀式の痕跡を探し出すだけだな」
 本当にこの部屋に中で儀式が行われたのならば、何かそれを示す痕跡が絶対に残されている筈だ。特殊な儀式の結果によって汚された空間は、その儀式の痕跡を浄化しない限り、決して清浄な空間には戻らない。
 それにエレーナ嬢がネメシスに捕われてしまったのは、そもそもこの魔術儀式が失敗した事に起因している。従って魔術儀式の痕跡自体を浄化する事が出来れば、復讐の魔女も力を失うだろう。何の特殊能力も持たず魔法の力さえも持たない僕には、それ以外に勝算などない。
 僕は改めて部屋の中を見回した。
 大きなベッドに、きちんと整理された本棚。古びてはいるものの埃一つ積もってはいない机、そしてクローゼット。
 屋敷の構造から考えて、隠し部屋の存在は有り得ない。必ずこの部屋のどこかで儀式は行われたに違いない。
 僕は本棚に近づいた。『転生』の秘術は、どこの神殿でも教えてはくれない。誰かが彼女にその秘術を教えたに違いない。ひょっとしたらノートや本と言った物が残っているかも知れない。
「……これかな?」
 いくつもの本に目を通して、遂に僕はそれらしき本を見つけた。タイトルは何も記されていないものの、随分と読み込まれているらしくあちこちが擦り切れていた。
 ページをめくってから、僕は自分の推理の正しさを知った。本の中身は、忘却神とその神聖魔術についての詳細だった。
 誰が書いた本かもわからないがエレーナ嬢はこの本を手に入れる事によって、儀式を思い立ったに違いない。
「ん?」
 パラパラとページをめくっていた僕の手が、急に止まった。本の端にペンで何か走り書きしてあるのが目に止まったからだ。
「……愛する父の為に、愛する母へ私の身体を捧げる……」
 僕の手から、本が滑り落ちた。
「……まさか……」
 僕は痺れたように呟いた。まるで頭の中が真っ白になってしまったようだ。
「……なんてこった……」
 エレーナ嬢は病気の母親を転生させる為に、自らの身体を犠牲にするつもりだったのだ。自分の魂が消滅するのを覚悟の上で!
 いくら母親を助けるためとは言え、それは尋常な覚悟ではない。文字どおり自分の『全存在』を賭けてこの儀式を遂行しようとしたのだ。
 他でもない、父親の為に。
「だけどクロイッツエル候がそれを理解せず、儀式は完全に失敗してしまった……」
 候の長剣がエレーナ嬢を貫いた瞬間、転生すべき母親の魂は宿るべき肉体を失ってしまったのだ。
 エレーナ嬢が絶望感に捕われたのは当然だし、その絶望感が復讐心へと変貌遂げるのも無理はない。そして、その復讐心がネメシスを呼び寄せた事は容易に想像がつく。
「駄目だ……」
 僕は弱々しく首を振った。
「……僕には、どうする事も出来ない……」
 僕の推理が当っているとすれば、もはやエレーナ嬢の願いを浄化させる事は出来ない。つまり、この場所に掛けられた呪いを解く事は出来ない。
 エレーナ嬢の母親を転生させる事など、僕には出来ない。
「……見事な物ね」
 自らの推理に絶望的な気分に浸っていた僕の背後から、急に声が掛けられた。
「もう答えに気付くなんて、本当に凄いわ」
 声の方へ振り向くまでもない。この屋敷の中で僕に声を掛ける事が出来る人物はただ一人、エレーナ嬢の姿をした魔女だけだ。
「……それは嫌味なのかな?」
 言葉が刺々しくなるのも無理はない。いくらお人好しな僕でも、好きになれない相手は存在する。そして、目の前の少女はその中でも間違いなく最悪の相手だ。
「嫌味なんかじゃないわよ」
 エレーナ嬢(いや、もうネメシスと呼ぶべきか)は関心した口調で言葉を続ける。
「少しは出来ると思っていたけど、まさかここまで出来るとは正直に言って考えてなかったわ」
 どうやら、皮肉の類ではなく本気で言っているらしい。もっとも、だからと言って僕の気が晴れる訳ではないが。
「誉めて貰えるのは、光栄だけどね」
 ネメシスの方へ顔を向けながら、僕は口を開く。
「結局、僕にはどうしようもない。はっきり言って、お手上げだよ」
 そう、全くのお手上げだ。この場所を浄化させる方法も手段も思い付かない。どうやら、僕もこの屋敷の中で朽ち果てるしかないようだ。
「そう悲観しなくてもいいのよ」
 何がおかしいのか、クスクス笑いながらネメシスが口を開いた。
「この場所も、馴れれば悪い場所ではないわよ……」
 ネメシスが近づき、僕の首に両腕をまわす。その腕はゾッとする程冷たかった。
「私なら、貴方の心の中を叶えてあげることも出来るわ」
 僕の耳元でネメシスが囁く。
「貴方が愛した女性……それとも貴方を愛した女性……貴方が望めば両方の夢だって叶えてあげるわよ」
「やめろ!」
 僕はネメシスの腕を振り払った。相変わらずクスクス笑う表情で、ネメシスは僕を眺めている。
「何故、やめて欲しいのかしら?」
 そのあどけない顔に似合わぬ妖艶な笑みを浮かべてネメシスが言葉を続ける。
「ここは幻と夢の領域にある場所。自らの願望を果たすことを拒否すれば、永遠に苦しみ続ける事になるわ」
「僕を苦しめるのは構わない。君の気が済むようにすればいいさ」
 断固たる意志をはっきりと言葉に乗せて、僕は口を開く。
「だけど、オデッセイやフレイアを辱める事は許さない。例え誰であっても、あの二人の思い出に、手を触れる事は許さない」
「………」
 ネメシスの目から涙がこぼれた。驚きのあまり声も出せずにいる僕の前で、ネメシスはぽろぽろと涙の粒をこぼしていた。
「……誰であっても、触れる事が許されない想い……お願い……気がついて……私が何を望んでいるのかを……私がどれほど後悔しているのかを……」
 ようやく僕は気付いた。これはネメシスじゃない、正真正銘エレーナ嬢だ。
「お願い……!」
 まだ手遅れではない! エレーナ嬢は救いを求めている。であれば、僕にもまだチャンスはある。少なくとも可能性はゼロじゃない!
「く……!」
 僕の前で少女が苦痛に顔を歪める。エレーナ嬢とネメシスの意識が激しく争っているのだろう。ネメシスの支配力に、エレーナ嬢の意識が果敢に戦いを挑んでいるのだ。
「……今回は引いて上げるわ……」
 どうやら勝ったのはネメシスの方らしい。悔しげに表情を歪めながら、言葉を吐き捨てるように言う。
「だけど、貴方に勝ち目はないわ。次に会う迄には覚悟を決めておく事ね!」
「……可能性が残されている以上、絶対に僕は諦めない」
 僕の言葉が耳に届いたかどうかは定かではない。ただ、最期の言葉だけを残してネメシスの姿はかき消すように消えて行った。
「よし!」
 僕は両手で軽く自分の頬を叩いた。手遅れじゃない以上、すぐに行動あるのみだ。エレーナ嬢はもう父親に対して憎しみの感情を持ってはいない。それには当然何か理由があるだろう。何が彼女の気持ちを変えたのか、それを確かめなくてはいけない。
 それさえ解れば、僕はネメシスに対抗する切り札を手にする事が出来る筈だ。
「さぁてと……」
 もっとも『それ』が『品物』なのか『言葉』なのか、あるいはまったく違うものなのか皆目見当も付かないのが問題だが。
「取り敢えず、書斎に向かってみよう」
 短い思考の末、僕はそう決めた。考えてみれば、僕はこの屋敷の事など何一つ知らない。何か情報を得る為にも、一度書斎に行って情報を仕入れておいた方がいいだろう。書斎のある場所は、大体見当が付いている。

 途中何度か部屋を間違えてしまったものの、僕は目的の書斎にたどり着いた。
「うわぁ……」
 部屋の中を見回して、僕は思わず驚嘆の声を漏らした。
「これは……凄い……!」
 どうやら候は相当の読書家だったようだ。広い書斎を埋め尽している本棚全部に隙間無く大量の本が詰め込められている。神殿の図書室にも匹敵する程の蔵書だ。であれば自他ともに認める本の虫である僕が、必要以上に浮かれてしまうのも無理はない。
「おっと……それどころじゃないか」
 頭を振って雑念を追い払い、改めて本棚の蔵書を見まわす。
 政治、軍事、経済、文化、医学。ありとあらゆるジャンルに渡って専門書が並べられている。中には名前しか聞いた事のないような古書まで混じっていた。流石はクラフトウエイト帝国の貴族だけあって、宗教、魔術関係の書籍は一つもない。
「……あれ?」
 ふと僕はある疑問点に気がついた。
「エレーナ嬢は、一体どこで『転生』の秘術の書物を手に入れたのだろう?」
 今までは漠然と候の書斎で手に入れたのではないかと思っていたが、ここには忘却神はおろか、最も信仰されている至高神についての書籍さえ置いてはいない。
 そして僕の知る限り、忘却神を祭る神殿は存在しない。
 一体どうやってエレーナ嬢は『転生』の秘術を知り、その方法を知ったのだろうか?
「……まだ何か、隠された秘密があるのかな……?」
 まったく、まるでタチの悪いロジックパズルを解いているような気分だ。まったく悪趣味にも程がある。
 しかしこれがパズルだとすれば、ゲームマスターは一体誰なんだろう? ネメシス? いや違う。彼女もパズルを構成しているピースの一つに過ぎないだろう。
 まだ何か僕の知らない力が関与しているように思えるのは、果たして気のせいなのだろうか?
「……あっと!」
 考え事をしていた僕の手が、ふとした弾みで本棚の一部に触れた。どうやら収納の仕方に問題があったらしい。そこになおしてあった大きめの本が数冊、バランスを崩して床の上に落ちてしまった。
「あちゃぁ……ん?」
 慌てて本を拾い上げようとして、僕は一冊の本の中身がくり貫かれている事に気がついた。中に納めていたらしい何かを包んだ布と、半分に折り曲げた紙片が床に散らばっている。
「………」
 何だかここに来て以来、やたらと人のプライバシーばかりを覗き見しているような気がする。止む得ない事情があるとはいえ、あまり気分の良い物ではない。
 そう思いつつも、僕は紙片と布を拾い上げた。中身は金属製品らしく、ずっしりとした重量の感触が手に伝わる。
『……愛娘より、家名を選らんだ愚かな父親より』
 紙片の表には、そう記されていた。
「これは……」
 しばらくその文字を眺めていた僕は、やがて意を決して紙片を開いた。
『償う事の叶わぬ罪を詫びる為、愛する我が娘に捧げる。せめて天界で母娘が安らかに過ごさん事を……』
 中には、僕が薄々予想していた言葉が記されていた。
「………」
 黙って紙片を再び半分に折り、布を近くのテーブルの上におく。そしてゆっくり慎重に包んでいる何かを取り出した。
「……栄光の紋章……」
 中身は金属で作られた至高神の紋章だった。それも永遠の平和と安らぎを象徴する印。普通、この紋章は墓や記念碑に供えられている。
「そうか……」
 僕はゆっくりと『栄光の紋章』を持ち上げた。
「そうだったんだ……」
 クラフトウエイト帝国内には至高神(に限らないが)の神殿は一つもない。多分、フェーンバードの最高神殿にでも依頼したのだろう。
 自分の娘が何をしようとしていたのかを、候は正確には理解していないかったかも知れない。
 だが遅まきながら自分の娘が、母親を苦痛から救おうとしていた事を理解したのだろう。それは既に手遅れだったけど、せめて娘に詫びる為この紋章を造ったのだ。他でもない。娘と、その母親に安らぎが与えられる事だけを願って。
 だが、その願いは破られた。エレーナ嬢は安らぎを得る事は出来ず、候もまたネメシスの呪いによって殺された。
「それにしても、何故こんな場所に隠してあるんだろう……?」
 折角の紋章も隠してあったのでは、何の効果も発揮しない。大体隠すぐらいなら始めから作らなければ良いのだ。
「そうか……!」
 答えは簡単だ。この紋章は候以外の誰かの手で隠されたのだ。この紋章が存在する事によって不利益を被る誰かの手で。
 僕の知る限り、そんな人物は一人しかいない。
「候……そしてエレーナ嬢……貴方達の願い、確かに受け取りましたよ」
 今こそ僕は全てを悟った。誰がこの場所に僕を呼んだのか。何を望んでいるのか。そして僕が果たすべき役目を。
「ネメシス!」
 僕は大声を上げた。怒りの感情がふつふつと心の底から沸き上がる。
「ネメシス、聞こえているんだろう。出て来たらどうだい」
 怒りの為に言葉が少々荒っぽくなってしまう。事実僕は生まれて初めて心の底から怒りを感じていたのだ。
「……せっかちな男の人は嫌われるわよ」
 相変わらずのクスクスとした笑顔でエレーナ嬢の姿をしたネメシスは現われた。その表情に先程の焦りはない。
「やっと覚悟が決まったのかしら? それとも、やはりいい夢を見たくなったのかしら?」
「一つだけ言っておく」
 戯言にはまるで耳を貸さず、できるだけ事務的な口調で僕はネメシスに告げる。そうしないと怒りのあまり、自分自身を見失ってしまいそうだ。
「君は、許されざる大罪を犯した。人の復讐心を故意に過大解釈し、その権利もなくエレーナ嬢とクロイッツエル候を苦しめたんだ」
 僕の弾劾の言葉に少しも動じた様子も見せず、ネメシスはいつもの表情のまま答えた。
「貴方が何をどう考えようとそれは自由よ。だけど、忘れられては困るわ。この娘が父親に復讐心を抱いたからこそ、私はここに居るのよ」
 それは事実だ。その名前とは裏腹に『復讐の魔女』は漠然とした思念の集合体、いわゆる精神エネルギー体の一種である。この状態では何の力も持たないが、何か強力な思念を受ける事によって力を得る。特に『復讐』の思念に敏感な事からこの名が付いた。自然現象の一種とも、古い魔法実験の副産物とも言われているが、実際の正体は全くの謎だ。
「始めは僕も、君がここに出現したのは当然の成り行きだと思っていた」
 僕の言葉を何を今更とでも言いたげな表情でネメシスは聞いていたが、特に口を開く様子は見せない。
「母親を転生させる事に失敗し、自分の命さえ失ってしまう結果に終わった。これではエレーナ嬢が暗い復讐心に捕われてしまうのも無理はない……」
 そこまで聞いてから、ネメシスはまるで勝ち誇るかのように口を開いた。
「そこまでわかっているなら、ここで貴方が出来る事など何一つない事も理解して貰えたのではないかしら?」
「……ただ、どうしても解らない事があった」
 ネメシスの言葉に直接答えず、僕は次の言葉を口にした。
「一体、誰が何の為に僕をここに呼び込んだのか? 何を求めているのか?」
 そこまで言ってから僕は『栄光の紋章』を持ち上げた。
「でも、やっと謎は解けたよ。僕はこの場所に捕われた魂を救わなくてはならない。理由も無く責め苦しみを受けている魂をね……」
 ネメシスが狼狽の表情を浮かべる。明らかに動揺しているのだ。
「この『栄光の紋章』を隠蔽したのも君の仕業だろう。君は自分の楽しみを守る為に、エレーナ嬢やクロイッツエル候の願いを踏みにじったんだ」
 空間が凍り付いた。僕もネメシスも一言も発せず、僅かな身じろぎさえしない。ただ時間だけがゆっくりと流れてゆく。
「……贖罪の時が来たんだよ」
 僕はゆっくりと口を開いた。怒りの感情はまだ完全には収まっていないものの、気分はすっかり落ち着いていた。
「素直にエレーナ嬢やクロイッツエル候の魂を解放するんだ。君の祭りの時間は終わったんだ」
「まだ、終わってなんかいないわ……」
 苦しげに表情を歪めながら、ネメシスが言葉を紡ぎ出す。
「この子は、父親を呪った……その呪縛は未だ解けてはいない……」
「君は、何か思い違いをしている」
 僕はネメシスを指差し、容赦無く言葉を叩き付けた。
「エレーナ嬢が呪ったのは、父親じゃない。父親を理解させられず、母親を転生させる事も出来なかった自分の無力さを呪ったんだ」
 ネメシスは何も答えない。答えるつもりがないのか、答える事が出来ないのかはわからないが。
「君はそれを都合よく解釈して、エレーナ嬢にとりついた。そして……」
 そこで僕は一端言葉を切った。言ってやりたい事は山ほどあったが、そんな事に意味はない。
「君は気付いている筈だ! エレーナ嬢の願いは、既に浄化されている。ここは君のいるべき場所じゃない!」
 僕が最期の一言を発すると同時に、栄光の紋章が目映い輝きを放ち始める。
「うがぁぁぁぁぁっ!」
 両手で頭を抱えながら、ネメシスが苦しそうに大声を上げた。明らかに輝きによってダメージを受けている。
「あんな暗い世界……孤独な空間……戻るものか……絶対に嫌よ……!」
 ネメシスの口から、苦痛に混じって低い嗚咽が漏れる。
「泣いて……いるのか?」
 前にもネメシスは涙を流したが、それは一時的に自分の身体を取り戻したエレーナ嬢の涙だった。だが……これは違う。
 ネメシスが……復讐の魔女が泣いているのだ。
「……絶対に戻るものですか……!」
 苦痛にのたうちながら、それでもその手を精一杯僕の方へ延ばそうとする。その手は明らかに僕の首に向けられていたが、敢えて僕はその手を払おうとはしなかった。一人で過ごす時間の空しさと寂しさは、僕自身よく知っていた。
「……一人では消滅しない……お前も道連れにしてやる……!」
「それで気が済むのなら、そうすればいいよ」
 僕はネメシスの手に自分の手を重ねた。
「一人でいるのが寂しいのなら、僕が一緒に居てあげてもいい。だから、エレーナ嬢達を解放してくれないか」
 一瞬呆気に取られたような表情をネメシスは見せたが、やがて糸が切れたように笑い始めた。
「あっはっははは……何処までもお人好しなんだな、お前は……」
 ネメシスは僕の手を払いのけた。
「お前を道連れにするのはやめだ。どうせ、お前にこの場所は浄化出来はしない……」
「……どういう事だい?」
 ネメシスは高笑いのまま言葉を続ける。
「この場所はもう四十年以上も呪われている。解放されたエレーナの魂も、せいぜいその辺を浮遊する存在となるだけさ……」
「………?」
「エレーナは『転生の秘術』に失敗した事によって、母親と自分の魂を消滅させてしまった。魂の無い存在は絶対に救われないし、解放された所でその辺を浮遊するだけの存在に成り果ててしまうだろう」
 不意に笑いを止めてネメシスは僕の顔を見据えた。
「つまりエレーナを本当に救う為には、誰かが代わりにその呪いを引き受け、その魂を浄化させてやる必要がある……お前にその覚悟はあるのか?」
 僕は表情を緩めた。
「なんだ、簡単な事じゃないか」
 そう簡単な事だ。僕の決心一つでエレーナ嬢が救えるのなら、安いもんだ。 「……お前は……正気なのか?」
 驚くよりは、呆れたようにネメシスが言う。
「本気で、赤の他人の為に自分の命を削るというのか?」
「僕は神官だ」
 はっきりと僕は言葉を続けた。迷う必要なんか少しもない。
「神官の務めは、人々を導き救いを与える事だ。だから、僕は自分の務めを果たす」
 ぴしっ……
 僕の耳に何かに亀裂が走ったような音が聞こえた。
「……完全にお前の勝ちだ……心優しき神官……」
 ネメシスがゆっくりと口を開く。
「たった今、この場所は浄化された……エレーナもやがて新たに生まれ変わる……」
 ぴしっ……ぴし……ぴしっ……
「………!」
周りの空間に亀裂が走っている光景を目撃し、僕は言葉を失った。今までの音は、この閉ざされた空間が崩れ落ちてゆく音だったんだ。
「だが……忘れるな……。お前はエレーナの呪いを引き継いだ。今は何も無くとも、近い将来、その呪いは必ずお前の身を亡ぼすだろう……」
 やがて辺り一面が目映い輝きを放ち始めた。その光は瞬く間に周囲を埋めつくし、僕の視界全てを塞いでしまった。
 やがて僕の意識は、白い閃光の中に飲み込まれてしまった……

「う…う〜ん……」
 頬を濡らす冷たい雨の感触を感じ、僕はゆっくりと意識を取り戻した。
「ん……?」
 慌てて起き上がり、左右を見回す。辺りには屋敷の廃墟と思しき残骸が散乱しており、雑草が生い茂っている。
「……ここは?」
 確か僕はクロイッツエル候の屋敷に居て、そこでネメシスと……。
 まさか、あれは夢だったのか?
 ふと僕は自分の足元に何か落ちている事に気が付いた。しゃがんで拾い上げると、それは錆びて形のわからなくなった金属製品だった。
「栄光の紋章……?」
 細かい形は解らないが、全体的な形が何となく紋章に似ている。
「夢…の筈はないよな……」
 あの屋敷で体験した事が夢だったとは思えない。確かに僕は……。
「……夢なんかじゃないわ……」
 背後で聞き覚えのある声が聞こえた。僕は慌てて振り返る。
「あれは夢なんかじゃないわ……例え時の流れは一瞬だとしても」
 そこにはエレーナ嬢が立っていた。ネメシスではない。正真正銘本物のエレーナ嬢が。
「私の願いを叶えてくれて、本当に有り難う。これで私も父も救われました……」
 エレーナ嬢が僕に深々と頭を下げる。
「……そして貴方の命まで削ってしまって、本当にごめんなさい」
「いいんですよ、別に」
 何だか照れ臭くなって僕はエレーナ嬢に声を掛ける。
「僕はただ、自分に出来る範囲内での神官の務めを果たしただけなんですから」
 そう僕は神官の務めを果たしたに過ぎない。実力で勝ち取った職ではないだけに、尚更務めを疎かにする事は出来ない。
「私には、貴方に何も礼を差し上げる事はできません。ですから……」
「別に礼なんて……」
 僕は辞退の言葉を口にしようとしたが、エレーナ嬢は僕の言葉を遮って自分の言葉を続けた。
「せめて私の『真名』を貴方に差し上げます。いつか必要になった時の為に……」
「『真名』を……! そんな大切な物を……!」
 『真名』とはその人間が生まれながらにして持っている名前の事で、本人の存在全てを象徴している名前である。これを人に教えるのは、自分自身を相手に渡しているようなものだ。
「もう、私には必要のない物です」
 寂しげな微笑みの表情でエレーナ嬢が言う。
「ですから、気になさらなくて結構です」
「しかし……」
 エレーナ嬢が僕の側まで近づく。そして耳元でゆっくりと囁いた。
「私の『真名』はイステリア。いつか貴方に娘が出来れば、是非ともこの名前をあげて下さいね……心優しき神官殿」
 次第にエレーナ嬢の姿が霞んでゆく。他人に自分の真名を明かした為に、最期の存在力を失ってしまったのだ。
「最期に一つ聞かせてくれませんか?」
 僕は最期の疑問を口にした。
「貴女は一体どこで『転生の秘術』を知ったのです?」
 もう殆どエレーナ嬢の姿は見えない。それでも、風にのって微かに言葉だけが僕の耳に届いた。
「……全ての物語の語り部……彼女が私に……」
 この言葉を最期に、エレーナ嬢は完全に僕の視界から消え去ってしまった。