Story前のページに戻る

オデッセイという名の少女

第一章

第二章

第三章

第四章



 神官を志しながらもその夢をはたせず、ただ漠然と毎日を送る青年カロン。
 そんな彼がある日出会った、神秘的なイメージを持つ風変わりな少女。
 その少女との出会いが、カロンの人生を大きく変えはじめた。
 こうして奇妙な生活をはじめた二人の行く末は……?

第二章

「こんばんわ、神官の卵さん」
 昨日と同じ時刻、同じ場所で並木に背中を預けた格好で例の少女が立っていた。
「……こんばんわ」
 僕はいかにも気の進まないような返事を返す。結局のところこの少女の事は何一つわかってはいない。また少女を落胆させる のは、僕の好む所ではなかった。
「元気ないのね。どうしたの?」
「……すみません。結局、思い出せませんでしたよ」
 僕は素直に頭を下げた。僕の予想に反して少女はそれほど落胆の色は見せなかったものの、返って来た返事は僕を困惑させる のに充分過ぎる物だった。
「まぁ……いいわ。世の中にはわからない方が、知らない方がいいこともあるもの」
「………?」
 困惑した表情の僕をからかうような笑顔を見せながら、少女は続ける。
「ところで、今年こそ卵から卒業出来そう? 自信のほどはどうかしら」
 少女の質問に、僕は軽く肩をすくめた。
「ははは。それはちょっと辛い質問だなぁ……」
 この質問は、本当に僕の胸に響いた。何故なら経験とか知識とかより、事実として僕は自分が試験に合格し得ない事を知って いたからだ。
 試験に自信が無い訳ではない。絶対に大丈夫、とは言えないが少なくとも及第点ぐらいは取れるだろう。だけど、最後の段階 において僕は失格を余儀なくされる。その理由があるのだ。
 もっとも、それを正直に少女に言う必要はないだろう。だから、取り敢えず無難な返事を返しておくことにする。
「……でも、まぁ頑張っては見ますよ」
 僕のその返事は、誰が聞いてもその場しのぎの言い逃れに過ぎなかった。だけど意外な事に、僕のその返事は取り敢えず少女を 満足させたらしい。幾分かの皮肉を含んだ微笑みを見せながら少女は口を開いた。
「そう、とってもあなたらしい返事ね。でもまぁ、今度こそ頑張ってもらわなくちゃね」
 その時、僕はふと気になった。
 何故、この少女は僕の事をこんなに気にしてくれるのだろう。
 親兄弟といった肉親関係ではない。僕に姉妹はいないし、生き別れの妹がいたなんて話も聞いた事がない。
 またそれほど大した面識を持つ間柄でもない(なんと言っても僕はこの少女を完全に忘れているのだから)。つまり僕がどの ような人生を送ろうとも、彼女には何の影響もないのだ。
 そんな僕のささやかな不信感を知ってか知らずにか、少女が言葉を続ける。
「そうだ、明日から食事洗濯の面倒を見てあげる。そうすれば、あなたも勉強だけに集中出来るでしょ?」
「は?」
 僕は思わず間抜けな返事をしてしまった。こんな突拍子も無い提案を面識の薄い少女からされれば、誰だって同じぐらい困惑 するにちがいない。
「大丈夫。こう見えたって、炊事洗濯はお手の物なんだから。まかせてちょうだい」
 僕の狼狽を完全に勘違いしているのか、少女から見当違いな返事が返って来た。
「いや……その……」
 僕がしどろもどろ何か言おうとしていると、少女は少し怒ったような表情を見せた。
「なぁによぉ。そんなにイヤなの?」
 やっぱり、完全に誤解している。いや、それ以前の問題か……。
「いや、そうでなくてですね……」
 混乱しながらも、僕はどうにか常識的な返事を返す事に成功した。
「……そう、君みたいな年ごろの女の子が、毎日僕のような所に通うのは、外聞的にもよくないですよ……」
「なに言ってるんだか」
 少女は僕の狼狽ぶりを楽しむかのように、更に言葉を続けた。
「通うんじゃなくて、試験が終わるまであなたの家に泊まりこむのよ」
 ちょっと、待ってよ……
 僕は殆ど絶望的な思いで空を見上げた。明るく輝く太陽が、これ程わざとらしく見えたのははじめてだ。
 いかに僕が世間に疎いのんびりやだとは言っても、この提案が引き起こすリアクションぐらいは容易に想像がつく。そしてそ れが決して心楽しい結果で終わろう筈もない事を。
「……考えなおしませんか……やっぱり、その、世間体と言うものが……」
 生まれてはじめての経験に、僕の頭の中はすっかり混乱をきたしていた。そのせいで自分でも何を言ってるのか全く自信が持 てない状況だ。
「大丈夫よ。あなたなら、夜中に襲ってきたりはしないでしょ?」
 少女の返事は、相変わらず論点がずれていた。ひょっとしたら、わざとずらしているのかもしれないが。
 僕は自分の理性に相応の自信を持ってはいたが、他の全ての人が僕の理性を信じている訳ではない。いかに僕が努力したとこ ろで、誤解の発生は避けようがないだろう。
「考え直した方がいいですよ……そう、お嫁に行けなくなりますから」
 我ながらなんとも陳腐な言葉だ。だが、それに対する少女の答えは、僕の想像の限界をはるかに越えていた。
「そんな事、別にいいわよ。その時には、あなたに責任を取って貰うから」

 ……結局の所、僕は少女を説得出来ずそのありがたい(と言うより無茶な)申し出を受け入れてしまわざるを得なかったのだ。

 次の日の朝から、早速少女は家にやってきた。冗談だと思いたかったたが、どうやら本気らしい。こう言うとなんだが、今の 僕は試験どころの話ではなくなっていた。
(小さな親切、大きなお世話。僕の心境はちょうどそんな具合だ)
 不思議な事に僕が覚悟していた程、僕と少女の関係についての噂は持ち上がらなかった。有り難いとはいえ、その一方で変な 気分になってしまったのも無理はない。
「……カロン。お前、結婚でもしたのか?」
 だけどやはりフェーンの興味深げな質問を受けることになり、これから繰り返されるであろう事態を予測して、僕は盛大なた め息をつく事になった。
「いや……別にそういうワケじゃないんだけどね……」
「だったら、何だ? 確かお前さんには、この近辺に住む親戚はいなかった筈だろ?」
「まぁね……」
 すっかり僕は返答に窮してしまった。実際の所、何とも答えようがないというのが、正直な気持ちだったから。
 何とかフェーンを納得させたものの、彼の好奇の視線を完全に消し去るのは不可能だったし、その後のフレイアの視線は、さ らに僕の心に痛く突き刺さった。
「なかなか隅には置けないじゃないの」
 何とも表現しがたい口調で、フレイアが僕に言う。それは呆れるというより、怒っているように聞こえたのは僕の考え過ぎだ ろうか?
「別に、好き好んでこんな境遇に陥ったワケじゃないけどね……」
 弁解じみた言葉をさらに続けようとして、僕はふと気が変わった。
「なんにしても、君がそんなに気にするような問題だとは思えないけどなぁ……。僕の事を気にするよりも、フェーンとの事を 考えるべきだと思うよ」
 今になって考えても不可解な程、この時の僕は妙に浮かれていたらしい。
「……それとも、妬いてるのかな?」
 自分でもまったく意識しないまま、こんな言葉が滑り出して来た。
「………!」
 フレイアが僕を睨みつける。純粋な怒りでは無く、苦痛に満ちた怒りの視線で。僕が二の句を継げずにいると、やがて彼女は、 今まで僕が見たこともないほど悲しげな表情に変わった。
 その瞬間、僕は全く取り返しのつかないことを言ってしまったことに気が付いた。
「いじわる……」
 フレイアが小さく呟く。
「知っていたくせに……本当はわかっていたくせに……」
 僕の目前で、フレイアはその小さな肩を震わせていた。その時まで、僕は彼女の身体がこんなに華奢で、たよりないものだと は気づいていなかった。
「フレイア……」
 複雑な感情のうねりが、言葉となって僕の口から漏れる。
 フレイアのそのか細い身体を抱き締めてしまいたくなる衝動が、僕の理性を圧倒しようとする。
 でも、それは許されない。
 フレイアの頬を伝う幾筋もの涙を見てしまったからには。そして、自分の言葉を忘れさることが出来ないからには。
「あなたはずるい……」
 たよりなく震えている身体には不似合いなほどはっきりした声で、フレイアは僕に言う。
「あなたは、自分が傷つくのを恐れるあまり、他の多くの人を傷つけるのよ」
 声は静かだったが、その弾劾の言葉は僕の心に深く突き刺さった。
「フレイア……その……」
 僕は彼女に何か声をかけようとしたが、結局それは果たせなかった。羞恥心と自己嫌悪の念が、僕に言葉を許さなかった。
「さようなら、カロン」
 涙の笑顔を僕に向け、フレイアが口を開く。
「結局、あなたは私のことを見てはくれなかったのよ……」
 言い終わると同時に、後も振り返らずに走り去る。彼女が去った後には、わずかな残り香さえなかった。
 そして、そのことが否応なく僕に事実を悟らせる。
 自分の愚かさが故に、僕は失ってはいけないものを永遠に失ってしまったということを……。
 それを夢だと思うのは、いかに僕が厚顔無恥な男であっても不可能だった。

「どうしたの? 元気ないわね?」
 少女が心配そうに僕の顔を見つめる。
 少女が用意してくれた夕食は、彼女の自信に相応しい逸品であったものの、それでも今の僕の気分を和らげる事は出来そうに も無かった。
「あ? いや……なんでもないよ」
 僕は無理に笑顔をつくりながら、答えにもなっていない返事を返す。少女は不服そうではあったが、だからと言って、それ以 上の追求はしてこなかった。
 僕はフレイアを、本当に愛していたのだろうか・・・?
 それは今まで自ら心の奥深くに封印していた考え、想いだった。誰も触れてはいけなかった筈の禁断の扉。
 愚かにも僕は、それを自らの手で押し開いてしまったのだ。
 あの時、他に選択の余地はなかった……方法はなかったんだ……。
 確かに僕はフレイアを想っていた。そして信じられないことに、フレイアも僕に好意以上のものを持っていたらしい。
 だが、二人で幸せの世界に浸ることは許されなかった。
 なぜなら僕の無二の親友であり、フレイアを僕と同じ、いやあるいはそれ以上にフレイアを本気で愛したフェーンがいたから。
 結論から言えば、僕が身を引いたのは正解だった。
 いつまでたってもうだつの上がらない僕とは違い、フェーンは確実にその地位を固めつつあったから。後10年もの時間が過 ぎれば大司祭のポストは間違いなく彼のものだろうし、その時の僕が取るに足らない端役である事に疑問の余地は無かったから。
 精神的な幸福は、決して最終的幸福の保証にはならない。
 愛さえあれば生きてゆける。いかに僕が若く現実に疎くても、そんな妄想を信じることはさすがに出来なかった。
 はたして、それがすべての理由だったのだろうか……?
 おそらく、僕はフレイアの言葉どうり、逃げただけに過ぎないのだろう。彼女の口から決別の言葉を告げられるのを恐れるば かりに、自ら決別という行動にでたのだろう。
 そして、それがフレイアを苦しることになったのではないか。
 可哀想なフレイア……
 おそらく、彼女は僕との決別を考えたことはないのだろう。話がフェーンのことになるたびに見せる寂しそうな表情は、決し て僕の錯覚ではなかった筈だ。
 要するに、僕は自分の小さな自尊心が傷つくのを恐れるあまり、結局フレイアを酷く傷つけてしまったのだ。
『取り返しのつくものと、そうでないもの。その区別をつけ、最善の方法を見いだす。それが優しさ、というものだ』
 確か、父さんがそんなことを言っていたような記憶がある。
『あなたは優しすぎるのよ。時にはそれが人を深く傷つけることも知らないね。』
 以前フレイアが僕にそう言った事がある。
 でも、それは多分間違っている。僕はひたすら臆病だったに過ぎない。
「……僕は卑怯者だ……」
 はっきりと意識したわけではなかったが、僕の口からそんな言葉がすべりだした。
「ねぇ、どうしたの? 今日は本当にへんよ……」
 少女の心配そうな声が、僕の思考を現実に引き戻した。いつの間にか相当の時間が過ぎてしまったらしい。せっかくの料理も 皿の上で空しく冷えきり、それは今や料理の残骸であるにすぎなくなっていた。
「……いや、なんでもないよ」
「だと、いいんだけど……」
 僕の返事に、少女は無条件では納得しなかった。
「……一人で思い煩うのは、絶対に良くないわ。そりゃぁ、相手がわたしじゃぁ、あまり頼りがいがないのもわかるけど……」
 僕は今日、大切なものを失ってしまった。
 話し続ける少女の横顔をぼんやりと眺めながら、僕は考える。
 でも、まだ全てを失ってしまったわけじゃ、ない。
 そう、僕はまだ何もかも全てを失ったわけじゃぁないんだ。
「君は、充分たよりになるよ」
 僕は無理に笑顔で少女に答え、残りの料理に手をつけた。