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オデッセイという名の少女

第一章

第二章

第三章

第四章



 神官を志しながらもその夢をはたせず、ただ漠然と毎日を送る青年カロン。
 そんな彼がある日出会った、神秘的なイメージを持つ風変わりな少女。
 その少女との出会いが、カロンの人生を大きく変えはじめた。
 こうして奇妙な生活をはじめた二人の行く末は……?

第一章

 その風変わりな少女がはじめて僕の前に姿を見せたのは、ある蒸し暑い夜の事だった。
 その日の夜は忌まわしい『混沌の月』がその特徴的な薄赤い光りを地上に投げかけ、僕の気分をすっかり滅入らせていた。
 昼に至高神イシス・ハーン神官の採用試験があり、僕もそれを受けたのだが、その結果は甚だ不本意な物になりそうなのだ。 それでさえ沈みがちな僕の気分は、『混沌の月』のせいでますます落ち込んでいた。
「こんばんわ」
 家に帰る途中の道筋で突然声をかけられ、僕はびっくりして立ち止まった。声の方を見ると、そこには一人の少女が立っていた。
 少し癖のありそうな長い金色の髪が印象的な少女で、『美人』というよりは『可愛い』と呼んだ方がぴったりとしている。
 歳は僕より若そうで、15ないし16といったところではないだろうか。
「こんばんわ」  困惑した僕が何も言えずに立ちすくんでいると、少女はさっきよりやや強めの口調でもう一度同じことを言った。僕の返事を 待っているのは一目瞭然であったから、僕も取り敢えず返事を返す。
「……えっと、こんばんわ」
 傍からみれば、さぞかしおかしな景色だったに違いない。少女に話しかけられた若者が、まるでオウムのように台詞を返して いる。こういう時には、もっと気の利いた台詞の一つでも言うべきじゃないだろうか? だけど残念な事に女性経験がほぼ皆無 の僕は、この少女を見た瞬間からすっかりあがってしまっていたのだ。
「面白い人ね。こういう時には、もっとロマンチックな台詞を言うものよ」  僕の心内を見透かしたかのように少女が言う。何故かその台詞で、僕はすっかりこの少女を気に入ってしまった。
「すみません。どうも女性とロマンは、僕には無縁な物ですから……」
 最後まで言い終わらないうちに、少女はクスクス笑いながら口を開いた。
「正直なのね、カロンさん」
「はぁ?」
 僕がこんな間抜けな返事を返してしまったのは、目前の少女が僕の名前を知っていたからだ。僕の記憶に間違いがなければ、 この少女とは初対面の筈だ。もっとも僕の記憶はとてもあやふやに出来ているから、意外と何処かで面識を得る機会があった のかもしれない。
「……あの、以前どこかでお会いした事がありましたか?」
 僕は少女に尋ねた。が、返ってきた返事は僕をますます困惑させるだけだった。
「以前? いいえ、ここ数年の間ずうっとあなただけを見てたのよ」
 自慢じゃぁないけど、僕は本当に女性とは縁が薄い。ここ数年通い続けた場所と言えば至高神神殿ぐらいのものだけど、 そこにこの少女はいなかった筈だ。
「………?」
 一瞬神殿とこの少女の間に奇妙なデジャブを感じて、僕は改めて少女を見つめなおした。だけど……やはり思いだせない。 今のは偶然の産物だったのだろうか?
「あなたがわたしを思い出せないのも無理はないけどね……」
 僕が心内で記憶の糸を手繰っていると、少女が少し傷ついたような口調で話しかけて来た。
「でも、やっぱり少しは気付いてくれると思ったのにな」
 どうやら少女は、僕がすぐに自分の事を思い出すと信じていたらしい。その声には明らかに落胆の響きが含まれていた。
「思い出しますよ……明日までには」
 どこか変な台詞だが、ほとんど反射的に僕はそう言った。女性に縁が薄いのは事実だが、だからと言って目前の少女をがっ かりさせっぱなしにするのも気が引ける。
『女性には懇切親切であること』
 これは死んだ父からの受け売り文句だが、どうして中々の名言だと思う。父も相当にもてなかったらしいが、果たしてどう やって母の心を射止めたのだろう。
 僕の母は美人で性格が良いという凄く出来た人だったから、別に父以外の求婚者だって大勢いただろうに。
「本当?」
 ぼんやりと他愛もない事を考えていると、少女の少し嬉しそうな言葉が耳に届いて来た。
「本当です。約束しますよ」
 自分でもかなりの安請け合いだとは思ったが、まぁこのまま少女を落胆させっぱなしにするよりは遥かにマシだろう。 自分がそんな大した人間だとは思えないが、しかし最低限の礼節ぐらいは守りたいものだ。
「そこでヒントと言ってはなんですが、あなたのファーストネームだけでも教えて貰えませんか?」
 少し狡かったかも知れない。名前を聞けば誰だって思い出せるものだから。ひょっとしたら忘れたままかもしれないが、 可能性は随分と良くなるだろう。
「……どうでもいいけど、あなたって誰とでも敬語調で話すの? よく疲れないわね」
 少女は呆れたような表情で言った。それでも僕の質問には一応答えてくれた。
「教えてあげなくもないけど、それってあまりに面白くないわね……」
 僕の質問の狡さに、少女は当たり前だがやはり気づいていた。
「いいわ、あだ名だけ教えてあげる」
「……あだ名、ですか?」
「そう」
 少女は悪戯っぽく微笑みながら言葉を続けた。
「名前とは全然似てないけど、『オデッセイ』とみなが呼ぶわ」
「オデッセイ?」
「そうよ。それじゃあ、せいぜい頑張って思い出してちょうだいね。神官の卵さん」
「神官の卵って……そんな事まで知ってるんですか……」
 思わずうろたえてしまう。
「そうよ。あなたの事で、私が知らない事なんか、全然ないんだから」
「はぁ……」
 少女は微笑んだまま、困惑した表情の僕を眺めていた。

 結局の所、翌日の朝になってもあの少女の事を思い出す事は出来なかった。
 どこかであった事がある。それは間違い無い。昨日感じたデジャブは決して錯覚では無い筈だ。
 一晩かけてこの結論に達したものの、結局肝心な事は何一つ分からないまま。昔から自分の能力を高く評価していた訳ではな いが、それにしてもここまで低いとは思っていなかった。まったく、自分が嫌になってくる。
『オデッセイ、過ぎ去りし栄光の時代』
 神話はそう伝えている。承知のとおり、これは少女のあだ名でもある。
「それにしてもオデッセイとはねぇ……」
 神話学上の重要名詞からあだ名を取る。それ自体は何の変哲もない良くある事の一つだ。しかしそれは結局のところ縁起かつ ぎの一つであって、なにがしかの功績を意味する言葉を選ぶのが普通だ。
 ところが言葉を聞いただけで想像できるように、オデッセイと言うのは決して良い意味を持つ言葉ではない。
「……そういえば、神話史上に一人だけ『オデッセイ』の名を持つ女性がいたっけ」
 確か至高神の一族で、調停神の名を持つ女性……。
 講義の時に真面目に聞いていなかったからよく思い出せないが、多分神殿に行けば何か資料が手に入るだろう。
 考えがまとまってから、僕は急いで神殿に向かった。神殿で得られる情報が有益であるという保証はないが、何しろ他に妙案が ある訳でもない。
 一種の賭けみたいな物だが、特別高価なチップを賭けているわけでもないから、それほど気にする必要もないだろう。道の途中 で、昨晩少女と出会った場所近くを通りかかったが、そこに少女はいなかった。僕はほっとするのと同時に軽い落胆をも感じたが、 この際それは幸運である。昨日あれだけの大見得を切った以上、何も判らないままのこの状態で顔を合わせるのは気分的にもよく ない。

「……『オデッセイ』の資料、じゃと?」
 神殿内の図書館に入り、僕が閲覧したい資料の内容を告げると、司書官の老神官は細い目をしばたかせながらそう答えた。
「そんなものに興味があるとは珍しいの。しかしな、カロン。お前さん、まだ神官採用試験に合格してはおらんのじゃろ。そんな 酔狂なものを調べておる暇があったら神話学の勉強でもしたらどうじゃ」
 恥ずかしい話だが、実を言うと採用試験五年連続不合格の記録を持つ僕は、ここでは相当に有名人である。老神官の言うことは もっともだったが、取り敢えず今はそれどころではない。
「まぁ、そのうちに。だけど今日はどうしてもオデッセイの事が知りたいんです」
 老神官は軽く肩をすくめた。他にも言いたい事はありそうだったけど、結局何も言わずに後ろの書庫へと消えていった。
 僕にはあまり時間の余裕はなかったから、正直言って非常に助かった。
 何しろ浪費出来るほど時間の持ち合わせに余裕は無かったから。
「まぁ、そんなに知りたいと言うのなら……」
 古びた本をわきに抱えた格好で、老神官が口を開く。
「ほれ、お前さんの後ろを見てみるといい。そこにオデッセイは描かれておるよ」
 老人の指した方向には、美しいステンドグラスがあった。だいぶ抽象化されてはいたが、中央付近に一人の少女が描かれている のがわかる。多分、それがオデッセイなのだろう。少女を中心として右側には杖を持った老人が、左側には剣を持った女性が 同じように抽象化されて描かれている。
「忘却神と至高神、だったかな?」
『右を守りし、忘却神。左を守りし至高神。彼らは表裏一体、別にして同一の存在である』
 そんな言葉を講義で聞いたような覚えがある。果たしてどういう意味だったかな?
 僕がそんな事を考えていると、老神官が本を渡してくれた。
「同じステンドグラスは講堂にもあるから、お前さんも一度ぐらいは見たことがあろうも。ほれ、おまえさんの期待に答えられ そうな本はこれしか無いじゃろ」
「それは全然気づかなかったな。ありがとう」
 僕は本を受け取ると、空いている席に腰をおろし早速ページをめくり始めた。
『調停神ラル・シェード・ハーンは、いわゆる天空の1000年戦争の初期に忘却神ク・ユーム・ハーンと至高神イシス・ハーン の間に生を受けた娘である。彼女は竜神ジェノヴァを討伐し、来るべき戦乱を避けるべく定められていた。しかし、純真で単純 な彼女は竜神を討伐し得なかった。そればかりか逆に利用され、戦乱の到来を早め時代を混迷化させる最大要因ともなってしまっ たのである。
 この戦乱によって神々が支払った代償はあまりに大きく、かつて栄華を誇った時代も無残な終焉を余儀なくされたのだ。それ 故に彼女は『過ぎ去りし栄光の時代』すなわち『オデッセイ』と称されるようになったのである……』
 そこまで読んでから、僕は大きく背伸びした。
「どうも、よく判らないよなぁ」
 ともかくオデッセイという少女神は、神話史上ではそれほど高く評価されているわけではない。はっきり言ってしまえば、出 来損ないの神性としてさえ記録されている。
 純粋が故に欺かれ利用された彼女に罪の全てがあるとは思えないが、実際に戦乱で苦労した人達が彼女をなじりたくなる気持 ちも分からなくはない。
「どうしたの? そんなに難しそうな顔をして」
 僕の背後から流れるような明るい声がかけられた。その声を聞いただけで相手がすぐにわかったから、僕は慌てる事もなく答 える。
「……ん? いやね、別に大した事じゃないんだ」
 僕は声の方を振り返りながら口を開いた。案の定、そこには僕の良く知っている女性が、まばゆい微笑みの表情を浮かべて立っ ていた。
「あなたって、本当にいつも同じ返事をするのね」
 その女性(僕の幼なじみで名をフレイアという)は、その長いプラチナブロンドの髪を自分の指でいじりながら言った。
「そうだったかなぁ……で、フェーンは一緒じゃないのかい?」
 その質問にフレイアは一瞬だけ複雑な表情をしたが、すぐに僕の質問に答えた。
「ええ。彼は司祭補佐官の試験を受けに行ってるわ」
 フェーンは僕の長い親友であり、フレイアの婚約者でもある。どこぞかの上流階級の子息らしいが、気取った雰囲気はまるで ない。どうにか人並みと行った生活水準の僕とも気さくに付き合ういい奴だ。
 最初に神官を志してから五年立つ今でさえうだつの上がらない僕とは違い、彼は優秀な神官である。彼の家柄もそれに寄与し ているのは間違い無いが、たとえ僕とフェーンの立場が逆であっても結果は変わらなかっただろう。
 それに頭がいいだけでなく、人格的にも精神的にも非の打ち所がない。
 だから彼とフレイアが婚約すると聞いた時、僕は心から二人を祝福した。その一方で僕の心にも複雑な想いがあったのは事実 だが、彼女の為にもそれが一番の方法だ。
 フェーンは心からフレイアを愛していたし、またフレイアもそれを疎ましくは思わなかっただろうから……。
「へぇ、そいつは凄い。やっぱりフェーンは僕なんかよりはるかに出来がいいね」
 素直な感想を口にすると、フレイアが悪戯っぽく尋ねて来た。
「悔しいとか、妬ましいとか……そう、あなたフェーンに嫉妬した事はないの?」
「フェーンに嫉妬? 僕が?」
 思わず笑いだしながら僕は口を開く。
「冗談じゃないよ。何だって僕がフェーンを妬んだりしなきゃいけないんだい。彼は優秀な奴だし、正当な才能に正当な評価が 与えられただけのことじゃないか」
「それを聞いて安心したわ」
 心底ほっとしたようにフレイアが言う。
「これでフェーンも安心出来るわね」
「………?」
 僕が怪訝そうな表情で自分の方を見たものだから、どうやら説明の必要を感じたらしい。軽く一息ついてから、フレイアは言 葉を続けた。
「彼は言ってたわ。自分が上流階級の人間だからこそ、出世のチャンスが与えられるってね。カロン、あなたの正当な能力に正 当な評価が当たえられてない事をフェーンは気にしているのよ」
「まさか」
 僕は思わず失笑してしまった。
「僕がいまだにこの調子なのは、それだけの能力しか持たないからさ。もしフェーンと同じ位置に僕がいたとしても、結果は変 わらないよ。そんな事は気にしないようにと伝えておいてくれないかな」
「わかったわ」
「それにフェーンはいい奴さ。だからこそ、君も彼の求婚を受けたんだろ? こんな事で大切な友情にヒビをいれる程、僕も馬 鹿じゃないよ」
「………」
 フレイアは何か言いたそうな表情をしていたが、口を開く気配は見せなかった。
「そうそう」
 ふと僕はあることを思いついて、フレイアに尋ねてみた。
「『オデッセイ』ってあだ名に、何か特別な意味があるかどうか知らないかい?」
 昨日の少女と彼女の間に面識があるとは思えない。だけど、ひょっとすればオデッセイと言うあだ名の持つ意味ならば知って いるかもしれない。それはきっと僕にとって無益な話ではないだろう。
「知らない事もないけど……」
 不思議そうな表情で彼女が答える。まぁ、当然だろう。質問した当人でなかったら、僕だって困惑したに違いない。
「いや、まぁ大した事じゃないんだけどね……ところで、それにはどんな意味が込められているのかな」
「そうね……」
 フレイアがわずかに言葉を強める。
「純真で正直で……そう、あなたみたいに馬鹿正直でお人好しって意味よ」
「きつい事を言うね……そんなに僕はお人好しかなぁ」
 辛辣なフレイアの言葉に、僕は苦笑を漏らすしかなかった。しかし彼女は言葉を止めようとはしなかった。
「ええ、あなたは掛け値なしのお人好しよ……時にはそれが人を深く傷つける事がある事さえ知らないね」
「………」
「ある一人の少女が求婚を受けたと聞いて、そのお人好しさんは一瞬愕然としたわ。けれどもその相手が自分の無二の親友だと 知って、今度は無条件にそして積極的に祝福してくれたわ……」
 そこまで言ってから、フレイアは僕を哀しそうな瞳で見据えた。そしてゆっくりと言葉を続ける。
「その時、その少女がどんな気持ちでいたか。カロン、あなた一度でも考えた事があって?」
 僕は何も答えなかった。いや答えられなかった。数秒間の気まずい沈黙の後、フレイアは力ない微笑みを見せながら再び口を 開いた。
「……変な話をしちゃったわね……。だけど、カロン。優しいだけじゃ、立派な神官にはなれなくてよ」
 そう言い残すと、フレイアは僕に背を向けゆっくりと歩きだした。
「……僕が立派な神官になれるなんて、自分でも思ってはいないよ……」
 遠ざかるフレイアの背中に向かって、僕はそっと呟いた。